ゾシマ長老– キャラクター紹介 –
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町中の信徒に慕われる、高徳の僧。アリョーシャの精神的指導者でもあり、僧院を出て、父と兄たちの側にいるよう勧める。死後に奇跡を期待されるが、何も起こらず、アリョーシャもショックを受けるが、信仰を新たにし、生涯の心の支えとなる。
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【23】 だれにも愛されない人の為に祈りなさい ~ゾシマ長老の遺言とパイーシイ神父の訓諭
アリョーシャの心の支えであるゾシマ長老は互いに愛し合うよう遺言を伝える。一方、長老に批判的なフェラポント神父は無知な修道僧を相手に不思議を説き、人心を惑わせる。老齢のパイーシイ神父はこれから俗界に出るアリョーシャに、似非キリストに気をつけるよう教え諭す。 -
【11】 神がなければすべてが許される? イワンの苦悩とゾシマ長老の励まし
イワンは「不死がなければ、善行もない。不道徳もなくなり、すべてが許される」という持論を展開するが、ゾシマ長老は彼の懊悩を見抜き、「いつかあなたの苦しみに解決が訪れ、その行路が祝福されるように」と励ます。神がなければすべてが許される、とはどういう意味なのか、屈指の名場面を解説。 -
【12】どうしてこんな人間が生きているんだ! ~ゾシマ長老はなぜ大地に頭を下げたのか
長男ドミートリイは父フョードルと和解する為、ゾシマ長老の会合に出席するが、神父の前でもフョードルはカチェリーナやグルーシェンカをを侮辱し、ドミートリイは「どうしてこんな人間が生きているんだ」と怒りを露わにする。一家の不幸を予感したゾシマ長老は、ドミートリイの足元に叩頭し「お赦しくだされ」と訴える、本作屈指の名場面。 -
【10】 キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ~イワンと神父の議論
国家が犯罪者に刑罰を科しても魂が救われるわけではない。国家の中に教会があるのではなく、国家が教会そのものになるべきという熱い議論が交わされる。果たしてキリスト教が国家に成り代わる事が正解なのか。一つのイデオロギーが社会全体を治めようとする危うさについても言及する、ロシアの未来を示唆するような場面。 -
【9】 人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~「空想の愛」と「行動の愛」の違い
裕福なホフラコワ夫人は自身の信仰が一生報われないのではないかと不安を訴える。ゾシマ長老は漠然と人類愛に憧れる「空想の愛」を戒め、愛の実践には痛みと忍耐が伴うと諭す。アリョーシャの還俗に繋がる、『行動の愛』に対する理念が語られる重要なパート。 -
【8】 ゾシマ長老とロシアの農婦 ~神は罪を犯した者を、罪のままに愛してくださる
高徳の僧ゾシマ長老に救いを求めて、貧しい農婦が次々に訪れる。彼女らはゾシマ長老の優しい言葉に癒やされ泣いて感謝する。当時の農村(特に女性)の不幸な境遇や貧しさが窺える印象的なパート。ロシアの農奴制と改革への動きと併せて。 -
【5】リアリストは自分が信じたいものを信じる ~アリョーシャの信仰とゾシマ長老
自身の意思によって神の道に進んだアリョーシャは高徳の長老ゾシマを心から慕い、奇跡を待ち望む。アリョーシャの信仰心と『聖トマスの不信』、ロシアの長老制度と奇跡に関するコラム。 -
【13-1】 僧院はお前の居るべき世界ではない ~行動の愛こそ魂の修業
カラマーゾフ一家の争いを目の当たりにしたゾシマ長老はアリョーシャに僧院を出て、二人の兄の側に居るよう促す。アリョーシャは動揺するが、俗世に戻り、家族に尽くすことが真の修業であることを教えす。「行動の愛」とは何か、ゾシマ長老の哲学が感じられる場面。 -
【6】 僧院の『薔薇の谷間』とゾシマ長老の女好き ~薔薇は何を意味するのか
父フョードルと長男ドミートリイの金銭問題を解決するため、高徳の僧ゾシマ長老の仲裁の元、家族会議が開かれるが、僧院に到着するや否や、さっそくフョードルの下品な物言いが始まる。フョードルが揶揄する『薔薇の谷間』について、江川卓の≪謎解き≫を元に解説。 -
【7】 自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる 老いたる道化 フョードルとゾシマ長老の会話
僧院でもふざけた態度を取り続けるフョードルに、ゾシマ長老は「自分自身に嘘をつけば、自分のうちにも周囲にも真実が見分けられなくなり、自分にも他人にも尊敬を抱けなくなる」と諭す。長老の洞察力とフョードルの真の姿が垣間見える場面。
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