リーズの監視と危険な誓い
章の概要
アリョーシャはカチェリーナからスネギリョフ二等大尉への見舞金200リーブルを預かりますが、スネギリョフはそれを握りつぶし、踏みつけにします。しかし、アリョーシャはその心情を理解し、事の経緯をカチェリーナに伝えるため、ホフラコワ夫人の屋敷に戻ります。
しかし、カチェリーナはイワンとの別れのショックから寝こみ、とても話せる状態ではありません。
そこで、アリョーシャはリーズとスネギリョフの事について語り合い、婚約の意思を固めます。
『第Ⅴ編 ProとContra / 第1章 婚約』では、アリョーシャの気持ちと、将来悪妻になりそうなリーズの危険な一面が描かれています。
動画で確認
TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007年)より。
リーズとアリョーシャが婚約の意思を固め、リーズがアリョーシャの手の甲にキスする場面です。
原作だけでも十分邪悪さが伝わってきますが、映像で観ると、ますます腹立ってきますよぉ~。アリョーシャ、何て悪趣味な・・。女性の選び方はドミートリイに学ぼう。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=8125
この娘だけはやめておけ……
結婚の約束
アリョーシャは、ゾシマ長老の言葉「僧院はおまえのいるべき場所ではない。それに妻も持たねばならぬ」に従い、彼に好意を寄せるリーズの思いを受け入れて、結婚を申し込みます。
アリョーシャとリーズの出会いは次の通り。
彼は以前、モスクワで、まだリーズが幼かったころから、よく彼女を訪ねて行っては、たまたま身近に起ったことや、本で読んだことを話したり、少年時代の思い出話をしてやったりするのが好きだった。ときには二人で空想にふけって、まとまった筋のある大きな物語を合作することもあったが、そのほとんどは陽気で滑(こっ)稽(けい)な話だった。いまこうしていると、二人はふいにまた二年前のモスクワ時代に帰ったかのような気持になるのだった。
ここだけ見れば、ほのぼのした幼なじみの恋という感じですが、リーズがヒステリックで、支配的で、相手のすべてを監視せずにいられない、厄介な人間であることは言葉の端々に現われています。
「ねえ、アリョーシャ、わたしたち接吻はもっと待たなくちゃいけないわ、だって二人ともまだその資格がないし、まだまだ長いこと待たなくちゃならないんですもの」
彼女はふいに結論をくだした。
「それより教えてほしいの、どうしてあなたはわたしみたいな馬鹿娘を、おまけに病気の馬鹿娘をおえらびになるの、そんなに頭がよくて、思慮深くて、なんでもよく気のつく人が? ああ、アリョーシャ、わたしはとっても幸福なの、だってわたし、全然あなたにふさわしくないんですもの!」
「とんでもない、リーズ。ぼくは二、三日うちにすっかり僧院を引きはらうんです。世の中へ出たら、結婚しなくちゃなりません、それはぼくにもわかっています。あの方もぼくにそう命令されたんです。そうなれば、あなた以上の相手はいないし……あなた以外に、だれがぼくを選んでくれるんです?
ぼくはもうこのことはいろいろと考えてみました。第一に、あなたはぼくを子供のころから知っています、
第二に、あなたには、ぼくにまったく欠けている才能がたくさんあります。あなたは、ぼくよりも快活な性格です、
それに、何よりあなたはぼくより純真です、
ぼくはもういろんなことに、いろんなことに触れすぎているんです……ああ、あなたは知らないでしょうけれど、ぼくだってカラマーゾフですからね! あなたが人を笑ったりふざけたりなさるのも、ぼくのことを笑いものになさるのも、なんでもありません。それどころか、笑ってくださいよ、かえってぼくはうれしいんですから……でもあなたは、小さな女の子のように笑いながら、心の中は殉教者のような考え方をしているんですね……」
「殉教者のようなって? どういうこと?」
「そうなんですよ、リーズ、さっきもあなたはこんな質問をしたじゃありませんか、ぼくらの中にあの不幸な人に対する軽蔑はないだろうか、あの人の心の中を勝手に解剖してはいないだろうかって――これは殉教者的な質問なんですよ……いや、ぼくにはどうしてもうまく言えないんだけれど、そういう疑問を頭に浮かべる人は、自分が苦しむことのできる人なんです。あなたは安楽椅子に坐りながら、これまでにもういろいろなことを考えぬいたに相違ないんです……」
「アリョーシャ、手をちょうだいよ、どうして引っこめたの?」幸福感に力の抜けたような弱々しい声でリーズはこう言った。「それはそうと、アリョーシャ、僧院を出たら、あなたはどんな服を着るつもりなの? 笑ったり、怒ったりしないでね、これはわたしにとってはとても、とても大事な問題なんですから」
「アレクセイさん、ちょっとこっちへ来てくださらない」
リーズはますます顔を赤らめながらつづけた。「お手をこちらにちょうだい、そう、これでいいわ。実はね、あなたに大事な告白があるの。きのうのわたしの手紙、あれは冗談じゃなくって、本気なのよ……」
そう言うと彼女は片手で目を覆った。この告白は、彼女にとってよほど恥ずかしいことであったらしい。突然彼女はアリョーシャの手を取ると、すばやく三度それに接吻した。
「ああ、リーズ、ほんとによかった」アリョーシャは喜びの嘆声をもらした。「だけどぼくは、あの手紙は本気なんだって、ちゃんと確信していましたよ」
「確信していたですって、まあ驚いた!」
彼女は急に相手の手を口もとから離したが、それでもその手は握ったままで、ひどく顔を赤くし、小さな、しあわせそうな笑い声を立てた。「わたしが手に接吻してあげたのに、この入ったら『よかった』だなんて」
しかし彼女の非難は的はずれだった。アリョーシャもすっかりうろたえてしまっていた。
「ぼくはいつでもあなたの気に入られたいと思っているんだけど、どうすればいいのかわからないんですよ、リーズ」
やはり顔を赤らめながら、アリョーシャはどうにかこれだけつぶやいた。
「アリョーシャ、あなたって情なしで、厚かましいのね。だって、そうでしょうが。自分でわたしをお嫁さんに決めてしまって、あとはもう平気な顔なんですもの。それに、わたしの手紙は本気だと確信していただなんて、どういうこと! 厚かましいにもほどがあるわ……そうよ!」
リーズの言動の一つ一つが引っかかりますね。
恋する乙女の、純真な振舞とはとても思いません。
どこか懐疑的で、アリョーシャの愛を試すような態度が気になります。
側にドミートリイが居たら、全力で「あの娘はやめとけ」と言うでしょう。
立ち聞き大好き ホフラコワ夫人
しかも、この娘には、立ち聞き、噂話、盗み読み大好きなホフラコワ夫人という義母さんまでセットで付いてます。
そして、その性質は、娘のリーズにも受け継がれ、
「アリョーシャ」彼女はまた舌たらずな口調で言った。「ちょっとドアのところを見てきてんだいよ、ママが立ち聞きしていないか?」
「いいですよ、リーズ、見てきましょう、でも、見ないほうがいいんじゃないですか、え? どうしてお母さんがそんなはしたない真似をするなんて思うんです?」
「はしたないですって? 何がはしたないの? 母親が娘の話を立ち聞きするのは、はしたないどころか、母親の権利じゃありませんか」リーズはかっとなった。「お断わりしておきますけどね、アレクセイさん、わたし、自分が母親になって、わたしと同じような娘ができたら、わたしかならず娘の話を立ち聞きしますからね」
「ほんとうですか、リーズ? それはいけませんよ」
「まあ、驚いた、だって何がはしたないの? そりゃ何かふつうの世間話をわたしが立ち聞きしたというのなら、はしたないと言われても仕方がないでしょうけど、いまの場合は、自分の実の娘が若い男とひとつ部屋に閉じこもっているのよ……ねえ、アリョーシャ、心得ておいていただきたいけど、わたし、結婚したらすぐあなたのこともこっそり監視しますからね、それから、あなたに来る手紙も全部開封して、いちいち読むことにしますからね……そのことはいまからお断わりしておくわ……」
「ええ、もちろん、そういうことなら……」アリョーシャはつぶやいた。「でも、いいことじゃありませんね……」
「まあ、ずいぶん軽蔑なさった言い方ね! アリョーシャ、ねえ、最初から喧嘩するのはよしましょうよ、――それより、いっそ洗いざらい思ってることを言ってしまうわ。そりゃ、立ち聞きはとっても悪いことよ、むろん、わたしがまちがっていて、正しいのはあなただわ、でも、やっぱりわたしは立ち聞きするの」
「じゃ、してください。でも、ぼくを見張ってみても、何も出てきやしませんよ」アリョーシャは笑った。
実際、二人の会話も、ホフラコワ夫人が隣室で聞き耳を立ててチェックをしています。
14歳の娘の結婚話が心配な気持ちは分かりますが、それ以上に、全ての物事を自分でハンドル操作したい支配的な性質の表れに見えます。
現代でもこういう女性は少なくないですが、ホフラコワ夫人は、そうした行為に何の恥も感じておらず、むしろ、そうすることが自分の義務であると頭から信じ込んでいるので、たちが悪いんですね。
ちなみに、リーズとアリョーシャの会話が終わると、ホフラコワ夫人は突然、アリョーシャの前に現れ、リーズが彼に宛てた「手紙」について、下記のような会話を交わします。
リーズの部屋を出たアリョーシャは、ホフラコワ夫人のところへは顔を出さないほうがよいと思って、夫人には挨(あい)拶(さつ)をしないまま、出口のほうへ向かおうとした。ところがドアを開けて表階段の上へ出たとたん、どこから現われたのか、当のホフラコワ夫人が彼の前に立ちはだかった。最初のひと言でアリョーシャには、夫人がわざわざここで彼を待ち受けていたことがわかった。 ≪中略≫
あらゆる偉大な、神聖なものにかけて、死の床におありになるあなたの長老さまの名にかけて、どうしてもその手紙を見せていただけませんか、アレクセイさん、母親であるわたくしに! なんなら、指でお持ちになったままでもけっこうですのよ、あなたが手に持ったまま読ませていただきますわ」
「いいえ、お見せしません、カチェリーナ・オーシポヴナ、あの人がいいと言っても、ぼくは見せません」
一方、リーズは、「わたし、結婚したらすぐあなたのこともこっそり監視しますからね、それから、あなたに来る手紙も全部開封して、いちいち読むことにしますからね」と不気味なことを口にしています。
それに対し、アリョーシャは、「じゃ、してください。でも、ぼくを見張ってみても、何も出てきやしませんよ」アリョーシャは笑った。と応じますが、フョードル殺しから13年後、アリョーシャが社会活動に身を投じるのは、『序文 作者より』で明言されていますし、
コーリャを中心とした少年たちとの交流が、やがて革命的なものになっていくのは容易に想像がつきます。
となると、監視大好きなリーズとホフラコワ夫人が、アリョーシャの行動や交友関係に疑問を抱かぬわけがなく、ここから情報がリークするのは間違いないと思います。しかも、アリョーシャとカラマーゾフ一家に恨みを抱く、野心的なラキーチンを巻き込んで、あっという間に当局に筒抜けになるのではないでしょうか。
冒頭から読み進めて、「この娘、どこかおかしい」と感じた読者は、アリョーシャの結婚が支配的なリーズとホフラコワ夫人の監視によって破滅に至るのを予感すると思います。
アリョーシャは事の重大性に気付かず、リーズの言動も適当に受け流していますが……。
あなたの手紙も一通だって読んだりしない ←嘘つき
リーズは、ここではいったん、「あなたの手紙も一通だって読んだりしないわ」と約束しますが……
「アリョーシャ、あなたは将来わたしの言うなりになってくださる? これもいまから決めておかなくちゃいけないことなの」
「喜んでそうしますよ、リーズ、きっとそうします、でも、いちばん大切な問題は別ですよ。いちばん大切なことでは、もしあなたと意見がちがっても、ぼくは義務の命ずるとおりにしますからね」
「それは当然よ。わたしだって、いちばん大切な問題であなたの言うとおりにするだけじゃなくって、何につけてもあなたを立てるつもりよ。そのことはいまから誓ってもいいわ、何につけても、生涯変らず」リーズは情熱をこめて叫んだ。
「しかも、それが幸福なの、幸福なの! そればかりじゃないわ、わたし誓うわ、けっしてあなたの話を立ち聞きなんかしないって、たったの一度だって、あなたの手紙も一通だって読んだりしないわ、だって正しいのはあなたで、わたしはちがうんですもの。わたし、きっと立ち聞きがしたくてうずうずすると思うの、きっとそうなるだろうと思うの、でも、やっぱりしないわ、だってあなたが立ち聞きはいやしいことだと考えていらっしゃるんですもの。あなたはもうわたしにとっては神さまみたいなものなの……」
「将来わたしの言うなりになってくださる?」とか、恐ろしすぎますね。現代の我がまま娘でも、こんな事は言いません(多分)
その上で、立ち聞きもしないし、あなたの手紙も一通だって読んだりしないわ、と約束しますが、それも怪しいですね。
本人も自覚してか、「立ち聞きがしたくてうずうずすると思うの」と付け加えています。
そして、その通りになるでしょう。
リーズが、自分の欲望を押さえて、アリョーシャへの誓いを貫くとは到底思えません。
もし、貫いたとしても、立ち聞き大好きホフラコワ夫人にあれこれ吹きこまれて、やはりそうしてしまうでしょう。
リーズこそ、アリョーシャの地雷、完璧だった作戦に孔を開ける魔女といっても過言ではないと思います。
第一の小説である『カラマーゾフの兄弟』は、未完で終わっているため、それだけを読むと、あれもこれも冗長な印象を受けますが、リーズとホフラコワ夫人の描写にしても、恋愛ドラマのヒロインというよりは、どこか邪悪な存在に描かれているのは、そういう事だと思います。リーズは決してアリョーシャを幸福にするソウルメイトではないし、最愛の女性でもない。(むしろグルーシェンカの方がそれっぽい) まさに人生の地雷、悪夢のような伴侶に違いないです。
アリョーシャの深い悲しみとは
ところで、このパートでは、リーズがアリョーシャの「深い悲しみ」について言及する場面があります。
アリョーシャが、このところ、ずっと、父や兄たちのことで心を悩ませていることは、リーズの目にも明らかだからです。
「兄たちは自分で自分をだめにしているんです」と彼はつづけた。
「父もそうです。そして自分といっしょに他の人間もだめにしているんです。先日パイーシイ神父が言われた言葉ですが、ここには《地上的な、カラマーゾフ的な力》が働いているんです――地上的な狂暴な力、なまのままの力が……この力の上にも神の聖霊が働いているのかどうか(注解参照)――それさえぼくにはわかりません。わかっているのはただ、ぼく自身もカラマーゾフだということです……」
「兄たちは自分で自分をだめにしているんです」というのは、本当にその通りです。フョードルも、わざと道化を装って、周りの人間まで不快な気持ちにしています。
(参考→ 【7】 自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる 老いたる道化 フョードルとゾシマ長老の会話)
『カラマーゾフ的な力』については、カラマーゾフ的好色とは』 ラキーチンは裏切り者のユダ? 嫉妬と野心が結びつくで、江川卓氏の解説を紹介していますが、単なる「色好み」ではなく、地の底から湧き上がるような欲望、情念、エナジーといったところでしょうか。
それが良い方に働けば、世界を変えるような創作や社会運動に結実しますが、悪い方に向けば、色情、暴力、守銭奴といった罪悪の根源となります。
アリョーシャも、清らかな心を持っていますが、その奥底には、「カラマーゾフの力」が蠢いており、自分でも何をしでかすか分からない、むずむずしたものを、いつも感じているのでしょう。ただ、彼には理性があるから、フョードルやドミートリイのようにはならないだけで、性情は理解できます。だから、心底から責めることはないし、むしろ同情的なんですね。
アリョーシャの場合、カラマーゾフ的な力は、社会活動に向かいます。
そうした「力」を予感すればこそ、ゾシマ長老も彼に還俗をすすめたのかもしれません。
江川卓の注解
神の聖霊が働いているのかどうか
悲劇の一切は階段の上で起る
リーズとアリョーシャの会話を隣室で立ち聞きしていたホフラコワ夫人は、アリョーシャが部屋から出てくると、直接話を聞くために、表階段に走り出る。
「あなたをつかまえようとわざわざこの表階段まで走り出てきましたのよ、あの芝居でも悲劇の一切は階段の上で起るじゃありませんか」。
娘の恋は母親の死とか言いましたわね
リーズがアリョーシャに書き送った手紙を見せるよう、ホフラコワ夫人が「娘の恋は……」と言ってアリョーシャに迫る。