江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【42】 悪魔は心の隙間に忍び寄る ~ラキーチンの妬みと誘惑

    アリョーシャ ラキーチン カラマーゾフの兄弟
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    高徳の僧、ゾシマ長老が亡くなると、人々はイエス・キリストのような奇跡を期待しますが、奇跡は起こらず、遺体は腐臭を放ちます。すると、それまで長老を仰ぎ見ていた人々も不信を抱き、悪口を言い始めます。そこへ批判的なフェラポント神父がやって来て、「悪霊退散!」などとわめき立てるので、聡明なパイーシイ神父はきつく咎めますが、一部の修道僧や信徒はフェラポント神父に感化され、彼の後に続きます。

    若いアリョーシャも例外ではありません。一連の出来事に強いショックを受け、信仰も揺らぎます。

    そこにラキーチンがやって来て、純真なアリョーシャの揺らぎを見てとると、ソーセージやウインナーの会食に誘います。

    『第Ⅶ編 アリョーシャ / 第2章 時機到来』では、アリョーシャの信仰の揺らぎと、アリョーシャをひそかに妬むラキーチンが言葉巧みに近づき、堕落させようとする様が描かれています。(グルーシェンカの住まいに連れて行く。貞操の危機😓)

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。

    ゾシマ長老の腐臭とフェラポント神父の嘲罵に衝撃を受けたアリョーシャは思わず僧院を飛び出し、森へと駆け出します。

    嘆くアリョーシャの所にラキーチンがやって来て、励ます振りをして、堕落させようと仕掛けます。

    ゾシマ長老の死からアリョーシャの慟哭まで、通して見たい方はYouTubeでどうぞ。
    https://youtu.be/I4arxS-jvJc?t=1173

    目次 🏃‍♂️

    誘惑の時機到来

    アリョーシャの嘆きと戸惑い

    アリョーシャは、長老の「腐敗」そのものよりも、その後の人々の掌返しに衝撃を受けます。

    それについて、「本作の書き手」は、「わが青年」、アリョーシャの心理について、次のように描写しています。

    彼が必要としていたのは奇跡ではなくて、たんに《至高の正義》でしかなかった。ただこの正義が、彼の信ずるところによれば、無残に破られたために、彼の心もにわかに手ひどい傷手を負うことになったのである。

    ゾシマ長老は、アリョーシャにとって、イエス・キリストの現し身でした。

    遺体が腐敗したからショックなのではなく、一部の信徒が簡単に信心を裏返し、悪口を言い始めたことが衝撃だったのです。

    長老を嘲罵することは、即ちイエス・キリストを嘲罵することだえり、アリョーシャの目には、ピラトの裁判で「イエスを十字架にかけろ」と喚き、「お前が本当に神の子なら自分で自分を救ってみろ」と嘲った群衆と重なって見えたかもしれません。

    それはまた、彼にとって≪至高の正義≫の敗北であり、人々にとって信仰がこれほど脆いものなら、命をかけて貫き通す意味もないでしょう。

    奇跡の徴しは一つの勝利の証しであり、それに続く、人々の賞讃、感動、畏敬こそが、アリョーシャの期待したものでした。

    ところが、現実には、まったく逆の、卑しむべきことが起こります。

    彼の切なる期待によれば、当然、全世界でだれよりも高い名誉を与えられるべきであった人が、――ほかでもないその人が、当然受けるべき栄誉を受ける代りに、いきなり地べたに引きずりおろされ、その顔に泥を塗られたのである! 

    なんのために? だれの裁きで? だれがそんな判定を下すことができたのか――これこそ、世なれない、処女のような彼の心をただちにむしばんだ疑問であった。彼が侮辱感と、心からの怒りをさえ覚えずには耐えることができなかったのは、心義しい人の中でもとりわけ心義しいあの長老が、自分よりもはるかにいやしく軽薄な群衆のあのような嘲笑と愚弄にゆだねられたことであった。

    いっそ奇跡なんぞ、一つも起らなくてもよい、なんの不思議も現われず、期待がただちに充たされなくてもいっこうにかまわない。だが、この不名誉はなんのためだ、この汚辱はなんのむくいだ? 憎悪に目のくらんだ修道僧たちの言いぐさではないが、《自然に先んじた》あのあまりにも性急な腐敗はなんのためなのだ? そして彼らがいま、フェラポント神父を先頭に勝ちほこったようにかつぎまわっている、あの《啓示》とやらはなんのためだ? どうして彼らは、そんな御託を並べる権利をさずかったと信じられるのか? 神の摂理とその御手はどこにあるのか? 

    どうして神は『もっとも必要な瞬間に』(とアリョーシャは考えた)その御手を引っ込めてしまわれ、盲目の、もの言わぬ、無慈悲な自然の法則に、いわばご自分から屈服しようなどと望まれたのか?

    自分の大好きなアイドルが不祥事で吊し上げにされると、それを信じた自分まで責められているように感じるのと似てますね。

    誰が悪くて、何が正しいの問題ではなく、自分が最高と信じたものが、世間においても、そのように信じられることが、信仰には一番大事なのです。

    自分が最高と信じたものが嘲罵されるのを目の当たりにして、平気でいられる者などありません。

    悪魔は微笑みながら誘う ~ラキーチン

    そこにタイミングよくやってきたのがラキーチンです。一本の樹の根方に突っ伏して、眠りこけたように身じろぎもしないアリョーシャの姿を目にとめ、面白そうに彼の顔を覗き込みます。

    「おや、顔つきまですっかり変っちゃったな。以前のきみの音に聞えた温厚さなんて影もないや。だれかに腹でも立てているのかい? ひどいことでも言われたのか?」

    「ほっといてくれ!」アリョーシャはだしぬけにこう言ったが、相変らず相手の顔を見ようとはせず、だるそうに片手を振っただけだった。

    「おやおや、これは驚いた! それこそ俗人なみにどなりだしたじゃないか。これが天使のお仲間とはね! いや、アリョーシカ、まじめな話、ほんとにきみには驚かされたよ。ぼくは、ここではもう久しく何を見ても驚かなかったんだがね。ともかくきみのことは教養ある人間として尊敬してきたんだし……」

    茫然自失とするアリョーシャに、ラキーチンはなおも挑発的な言葉を投げかけます。

    「いや、ほんとにきみは、あの爺(じい)さんがあんな臭いを立てだしたというだけで、そうなのかい? まさかきみだって、あの爺さんが奇跡をご披(ひ)露(ろう)に及ぶなんて、本気で信じていたわけじゃないだろう?」ラキーチンの声には、ふたたびいつわらぬ驚嘆の調子がひびいた。

    「信じていたんだ、いまも信じている、いや、信じたい、だから信じつづける。それがどうだって言うんだ!」アリョーシャはいら立たしげに叫んだ。

    「いや、一言もないよ。ああ、ばかばかしい、いまどき十三かそこらの小学生だってそんなことは信じちゃいないぜ。もっとも、いや、畜生……じゃ、きみはいよいよ自分の神さまに腹を立てて、謀反を起したってわけか。例の《昇任も沙(さ)汰(た)やみ、叙勲も素通り》期待はずれをいうで、みごと肩すかしってやつだな! いや、きみらときたらまったく!」

    アリョーシャは妙に目を細めて、長いことラキーチンを見つめていたが、ふとその目に何かがきらめいた……といっても、それはラキーチンに対する敵意ではなかった。

    ぼくは神さまに謀反を起したんじゃない、ぼくはただ《神の世界を認めない》だけなんだ」アリョーシャはふいにゆがんだ微笑を浮かべた。

    ここで、「ぼくは神さまに謀反を起したんじゃない、ぼくはただ《神の世界を認めない》だけなんだ」とイワンの言葉を反復するのが印象的ですね。

    元々、真面目なイワンは、現実社会に対する失望から、「ぼくは神を認めないんじゃない、ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」とやるせない思いを打ち明けます。(参考→ 【33】 神さまに天国への入場券をお返しする ~子供たちの涙の上に幸福を築けるか?

    その際、アリョーシャは、「それは反逆です」と反駁していることから、それを自分自身が口にするということは、自分に対しても、世界に対しても、反逆の意思を表明したも同然ですね。

    何の事か分からないラキーチンは、深く追求することなく、アリョーシャにソーセージやウォッカを勧めます。日本に喩えれば、禅僧に食肉を勧めるようなものですね。

    アリョーシャも自暴自棄の気持ちからラキーチンの誘いに乗り、ラキーチンを喜ばせます。

    その時、ぽつりと口にする、

    「きみの兄貴のイワンは、いつだったかぼくのことを《自由主義気どりの無能なだん袋》とのたまわったものさ。きみも一度だけだが、つい口をすべらして、ぼくを《破廉恥漢》呼ばわりしたことがある……まあ、それはいい! ところで今度はぼくが、きみらの有能ぶりと清廉潔白ぶりを、とくと拝見させてもらうとしようや(最後の言葉を、ラキーチンはもう独りごとのような小声でつぶやいた)。

    この台詞からも、カラマーゾフ兄弟への妬みや恨みが窺い知れます。表面では友好的に振る舞っていますが、特にアリョーシャのような善人を破滅させる機会を虎視眈々と狙っているわけですね。

    そんなラキーチンが誘った先は、淫婦グルーシェンカの住まいです。

    第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第7章 出世好きの神学生』で、ラキーチンが言う、「それはそうと、ぼくはグルーシェンカに頼まれてるんだ。『あの人(つまり、きみのことさ)を連れてきてよ。あの人の法(ほう)衣(え)を脱がせてみせるからさ』ってね。それがひどくまた熱心でね。連れてきてよ、連れてきてよ! の一点ばりなんだ。考えさせられちゃったよ、いったいきみのどこにそんなに興味を惹かれるんだろうってね。なにしろ、あの女もだいぶ変ってるのさ!」からも分かるように、グルーシェンカは純真なアリョーシャに興味津々。次の章『一本のねぎ』で、「あんたを見てるうちに、どうしても食べてしまいたくなったの。ぱっくりやって、笑いものにしたかったのね」と白状しているように、本気でアリョーシャの純潔を汚すつもりだったのでしょう。そして、その魂胆を知っているラキーチンは「つまり、時機到来というわけだ」と腹の中でほくそ笑み、アリョーシャをグルーシェンカの住まいに連れて行きます。

    彼がアリョーシャをグルーシェンカのところへ連れて行くのは、彼女を喜ばせようためではさらさらなかった。彼は現実的な男で、自分の得になる狙(ねら)いがなければ、なんの行動も起さないほうなのである。ところで、いまの彼の狙いの筋は二重のものだった。第一は、腹いせ、つまり、《心義しい人の汚辱》ばかりか、おそらくは《聖者の列から罪人への》アリョーシャの《堕落》を目にできるだろうという魂胆で、その期待に彼はもういまから舌なめずりせんばかりだった。第二に、彼にはもう一つ、いわば物質的な、きわめて割りのいい狙いの筋があったのだが、それについては追ってまた話すことにしよう。

    【コラム】 二つの悪魔 ~ラキ-チンとスメルジャコフ

    『カラマーゾフの兄弟』には二人の悪魔が登場します。

    ラキーチンとスメルジャコフです。

    スメルジャコフが人の弱みに揺さぶりをかけ、良心を迷わせる悪魔なら、ラキーチンは堕落の魔です。純真なアリョーシャには「汚れ」が最大の罪だと知っていて、食肉と淫蕩の罠を仕掛けます。

    このシリーズでもしばしば話題にしていますが、悪魔は「怪物」や「悪霊」と異なり、人に祟ったり、嵐を巻き起こしたり、直接的に災いすることはありません。時には女神のように、あるいは偉人のように、立派な顔で近づき、人の最も弱い部分に囁きかけます。

    「あくせく働かなくても、私のサロンのメンバーになれば、1000万ぐらい、すぐに儲かるよ」

    「僕が愛しているのは君だけだ。妻とは別れるから、これからも付き合って欲しい」

    「食品の期限切れなど気にするな。一日ぐらい誤魔化しても、誰にも分かりゃしないさ」

    冷静に考えれば、そんなはずないのに、愛や金銭や出世欲にとらわれると、いとも簡単に欺され、悪に染まってしまいます。

    悪魔は人の心を知りつくし、その人の一番弱い部分を突いてきます。

    イワンの場合は、悲劇が起きると予感しながら、父を見捨てたこと。(チェルマンシニャに行って欲しいというフョードルの願いを無視して、モスクワに行ってしまった)

    アリョーシャの場合は、期待通りにならなかったことで、信仰に対する疑念が生まれます。

    とりわけ、アリョーシャのように志操堅固な人間にとって、自暴自棄は悪魔の格好の餌であり、「時機到来」とは、まったく上手く言ったものです。

    そして、アリョーシャは、ラキーチンの思惑通り、グルーシェンカの住まいに出かけ、禁忌であるはずの女性を膝に乗せる行為に及びます。堕落しきった人間なら、そこで懇ろになり、取り返しのつかない過ちを犯すのでしょうけど、アリョーシャはそうはなりませんでした。昔、婚約者に捨てられて、心に深い傷を負ったグルーシェンカを優しさで癒し、その愛によって、アリョーシャ自身も救われます。

    悪魔の誘惑に対抗するのが強い意思ではなく「愛」であり、それも聖女ではなく、淫売と呼ばれる女性であるのが象徴的ですね。

    思えば、悪魔にかどわかされるのは、「もっと有名になりたい」「他よりも優れたい」という自己愛ゆえで、周りを思いやる気持ちや謙虚さがあれば、悪魔の誘いに乗ったりしません。人の弱さとは愛の欠如であり、それだけが唯一、悪魔を退ける所以です。(イワンも、自分の意地より、父や兄を思いやる気持ちがあれば、父の願いを聞き入れ、ドミートリイを止めることもできただろう)

    日本にも「魔が差す」という言葉がありますが、悪魔は常に人の傍らにいるのかもしれないですね。

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