科学時代は人間を盲目にし、信仰から人を遠ざける
章の概要
ゾシマ長老の死期が近づき、アリョーシャも不安でなりません。ゾシマ長老が亡くなったら、僧院を出る約束であり、アリョーシャにはまだその覚悟がないからです。
一方、僧院では、ゾシマ長老に批判的な苦行者、フェラポント神父が無垢な修行僧に絡み、不気味な存在感を示していました。
そんな中、ゾシマ長老は最後の力を振り絞って、アリョーシャ、神父たち、そして全人類に向けて、「お互い愛し合うてくだされ」と心から語りかけます。
また年輩のパイーシイ神父は、還俗を控えたアリョーシャに、似非キリストに気をつけ、俗世の誘惑を退けるよう、はなむけの言葉を贈ります。
『第Ⅳ編 うわずり / 第1章 フェラポント神父』では、神なき時代の未来を予見するようなドストエフスキーの警告と願いが、ゾシマ長老とパイーシイ神父の言葉を通して語られます。
動画で確認
映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より、1分動画。
ゾシマ長老の葬儀の場面ですが、フェボラント神父と、パイーシイ神父らのイメージが掴めると思います。
参考にどうぞ。
お互い愛し合うてくだされ ~ゾシマ長老の遺言
ゾシマ長老が、今日にも訪れる死を予感して、神父や苦行僧らに最後の説教を行ないます。
長いので、前半と後半に分割して、解説します。
罪を自覚し、謙虚であれ
「お坊さま方、お互い愛し合うてくだされ」と長老は説いた(これはアリョーシャの後日の記憶によるものである)。
「神のものなる民衆を愛してくだされ。ここへ来て、僧院の壁の中に閉じこもっているからといって、われわれが俗界の人より聖(きよ)い存在であることにはならぬし、それどころか、ここへ来た者はだれしも、自分が俗界のだれよりも、この地上のだれよりも劣ることを悟ったればこそ、ここへやって来たわけなのですから……
とすれば修道僧たる者、この壁の中で暮すことが長くなればなるほど、ますますこのことを痛切に自覚すべき道理で、でなければ、そもそもここへやって来る理由がなかったことになります。自分が俗界のだれよりも劣る人間だと自覚するだけでなく、自分が万人に対して何事につけても罪がある、人間の罪、世界の罪、個々人の罪の一切について責めを負うているという認識に到達できるときにはじめて、われわれの結合の目的も達せられますのじゃ。
それというのも、みなさん、われわれ一人ひとりがこの地上のあらゆることについて疑いもなく罪を負うているからで、それもただ普遍的、世界的な罪について責めを負うているというだけでなく、われわれ一人ひとりがこの地上の万人に対して、またそれぞれの人間に対して、個人として罪を負うているということですのじゃ。この自覚こそ、修道僧の歩むべき道の究極の到達点であるばかりでなく、この地上のあらゆる人の目標とも申せましょう。
なぜと言って、修道僧とてなにも特別の人間ではなく、ただ地上のすべての人のかくあるべき姿というだけでしかありませんからな。そうなってはじめて、われわれの心はかぎりもない、全宇宙的な、飽くことを知らない愛の感動にひたることができますのじゃ。
そのあかつきにはみなさんのだれもが、愛によって世界をかちうることもできるし、またおのれの涙によって世界の罪障を洗いきよめることもできましょう……
だれもがおのれの心をしかと見張り、怠りなくおのれへの懺悔をくり返されるがよい。
「われわれ一人ひとりがこの地上のあらゆることについて疑いもなく罪を負うている」というのは、キリスト教に馴染みがないと、「え? オレ、何も悪い事はしてないけど。。?」と違和感を感じるかもしれません。
ドストエフスキーの小説やキリスト教を理解する上で、絶対不可欠なのが、『原罪』に対する考え方です。
キリスト教で言うところの『罪』とは、万引きや恐喝みたいな違法行為ではなく、アダムとイブが神のように賢くなろうと知恵の実を口にしたことから始まります。
神になりかわって、人が善悪を判断し、自分の意のままに行動することに『罪』があるわけですね。
もちろん、現代において、自分の頭で考えることは決して悪いことではありません。就職、進路、人間関係、余暇の過ごし方まで、自分の価値判断で選択すればいいと思います。
しかし、ひとたび、物事に躓くと、考えも変わります。
愛する人をなくしたり、仕事を失ったり、受験に失敗したり。
不幸に陥ると、スピリチュアルにはまったり、自己啓発の本を読み漁ったり、オンラインサロンに入会したり、他に救いを求める人は少なくないですね。
それは自分の頭で考えることには限界があるからです。
考えても、考えても、一人で立ち直ることができず、他者の知恵にすがったり、自分を全肯定してくれる存在を探し求めたりします。
キリスト教では、そうした存在を『神」と言います。
つまり、どれほど技術が発達しても、いろんな知識を仕入れて利口になっても、人は神から離れて生きていくことはできず、時には似非キリストにすがったり、スメルジャコフのように神を全否定して、破滅にひた走ることもあります。しまいには利口なイワンも悪魔の幻想を見て、正気をなくしてしまうのも、自分の頭で神に代わる救済を考えだそうとして、自家中毒を起こしたからでしょう。
ゆえに、神から離れて、自分の頭で考えることは罪深いのです。
ゾシマ長老は、各自が罪を自覚してはじめて、「われわれの心はかぎりもない、全宇宙的な、飽くことを知らない愛の感動にひたることができますのじゃ」と教え諭します。
とりわけ、僧院に居れば、自分たちは庶民よりも清く、正しく、選ばれた人間だと勘違いしがちです。神父と仰ぎ見られる者こそ、己の罪をじかくし、謙虚であれという戒めです。
「だれもがおのれの心をしかと見張り、怠りなくおのれへの懺悔をくり返されるがよい」というのは、本当にその通りです。
だれにも祈ってもらえぬすべての人たちの為に祈れ
おのれの罪を恐れることはありませぬ、たとえ罪を自覚されても、ただ悔いるのみにとどめ、神さまに約束などなさいますな。
重ねて申しあげるが、ゆめ高慢心を起してはなりませぬぞ。小さい者に対しても、大きな者に対しても高慢心を起されぬことですじゃ。あなた方をこばむ者をも、辱しめる者をも、そしる者をも、またあなた方を中傷する者をも憎んではなりませぬ。無神論者をも、悪の説教者をも、唯物論者をも、ただに彼らのうちの善良な者のみにとどまらず、邪悪な者たちをさえ憎んではなりませぬ、なぜかと言えば、彼らのうちにも、とりわけいまのような時代には、善良な者が数多くおりますのでな。
そういう人たちのためにはこう祈ってやりなされ。
『神よ、だれにも祈ってもらえぬすべての人たちをお救いください、また神に祈ることを欲しない人たちをもお救いください』そしてすぐさまこうつけ加えなさるがいい。『神よ、このようなお祈りをいたしますのは、わたくしの高慢心のためではございませぬ、わたくしこそ他のだれにもましてけがらわしい人間でございますから……』とな。
神のものなる民衆を愛し、羊の群を侵入者どもに奪わせてはなりませぬ。もし怠惰や、いまわしい高慢心や、なかんずく物欲にとらわれて眠りをむさぼるなら、八方から侵入者どもが襲って来て、あなた方の羊の群を奪い去って行きますぞ。民衆には倦(う)むことなく神の福音を説き聞かしてやってくだされ……
私利をはかりなさるな……
金銀を愛して蓄えたりしてはなりませぬぞ……
神を信じて信仰の旗を守りなされ。その旗を高くかかげなされ……」
「だれにも祈ってもらえぬすべての人たちをお救いください、また神に祈ることを欲しない人たちをもお救いください」という言葉は、『第Ⅰ編 ある一家の由来 / 第4章 三男アリョーシャ』で、僧院に入ると決めたアリョーシャに対して、フョードルが「おれたち罪深い者のためにお祈りをしてくれや、いったいだれがおれのために祈ってくれるだろうか? そんな物好きがこの世にいるだろうか?」「この世の中でおれを責めようとしなかったのは、おまえひとりきりだったんだからなあ」という台詞に繋がります。
金にがめつく、淫蕩に溺れたフョードルでさえ、人生の最後には、天罰を恐れ、孤独を恐れ、年若いアリョーシャに弱音を吐いたりします。
自分が犯した罪の重さは、他ならぬ、自分自身が一番よく知っている。誰も良心の咎から逃れることはできない――というのが『罰』です。小説『罪と罰』のラスコーリニコフの苦悩と同じです。
この世の本当の地獄は、誰にも愛されず、幸せすら願ってももらえない、絶対的孤独です。
そういう人たちの為に、祈ってあげなさい、しかし「祈ってあげる」という傲慢な態度からではなく、自ずと満ちあふれるように……というのがゾシマ長老の教えです。
それこそ無償の愛であり、最高の修行だからです。
フェラポント神父と似非キリスト
一方、ゾシマ長老に反感を抱き、不気味な存在感を示すのが苦行者、フェラポント神父です。
フェラポント神父は七十五歳の老僧で、養蜂場の裏手にある別建ての庵室に住んでいます。
長老制度を「有害で軽はずみな新制度」と反対しており、ゾシマ長老のところにも、一度も足を運んだことがありません。
人の噂では(というより、それが事実だったのだが)、彼は三日にせいぜい二フント≪約800グラム≫のパンしか口にしなかった。三日おきにこのパンを運んで来るのは、近くの養蜂場に住んでいる蜂飼いの僧だったが、自分の世話を焼いてくれるこの蜂飼いとも、フェラポント神父はめったに口をきくことがなかった。
週二回で四フントのパンと、日曜日の午後の礼拝のあとで僧院長がこの神がかりの僧に欠かさず届けてよこす聖パン、それが彼の一週間の食物のすべてであった。
柄つきコップの水は毎日取りかえられた。礼拝式にはめったに顔を出さなかった。どうかすると、終日ひざまずいて、わき目もふらずに祈りを唱えている彼の姿を、参詣の傾倒者たちが目にすることもあった。
ときには彼らと言葉をかわすこともないではなかったが、その話しぶりは短くきれぎれで異様なうえに、いつも粗暴な感じだった。もっとも、ごくまれには、そういう彼でも来訪者と熱心に話しこむことがあったが、そんなときはたいてい何か一言だけ奇怪な言葉を口にして、来訪者に大きな謎をかけるのがつねで、それからあとは、もうどんなに頼んでも金輪際その意味を説明してくれないのだった。
僧位は何も持たず、平の修道僧でしかなかった。
きわめて無知な人たちの間にではあったが、まことに奇怪な噂がひろまっていて、フェラポント神父は天上の精霊と交渉を持っていて、精霊たちとだけ話をするものだから、それで人間とは口をきかないのだと言われていた。
現代でも、アーミッシュ(Wiki参照)やベジタリアンのように、豊かな文明生活を否定し、俗世から距離を置いて、ミニマルなライフスタイルを貫いている人は少なくないですね。フェラポント神父もその類いで、変わり者というよりは、ひねくれ者です。
そんなフェラポント神父のところに、オブドルスクの修道僧が訪ねてきます。この修道僧も、いわゆる「無知な人々」で、フェラポント神父を聖なる貧者のように思い込んでいます。
フェラポント神父は、さっそく修道僧の食生活を尋ね、修道僧が正直に答えると、フェラポント神父は、自身の清貧を誇り、一般的な食事をしている僧院長らを「おごりたかぶった、不浄な考えじゃ」嘲ります。
さらに、去年の五旬祭に僧院長を訪ねた時、法衣のかげから、角だけのぞかせている悪魔を見た、などと言いだします。
「あなたさまには……見えますので?」
修道僧がたずねた。
「見えると言うておるわ、見とおせるのじゃ。僧院長のところから帰りがけ、見るとな、その一匹がわしをよけて扉のかげにかくれようとしおったが、それが甲羅を経たやつでな、背の高さが一アルシン半約一メートル、いや、それ以上もあって、太くて長い茶色の尻尾をしておったが、その先がちょうど扉の隙間に入りおった。
わしも、そこはそれ心得たものでな、その扉をいきなりばたんと閉めて、やつの尻尾をはさんでやったわ。きゃんきゃん金切り声をあげてもがきだしたが、わしがそいつに向かって十字の印を三度まで切ってやるとな、やつめ、踏みつぶされた蜘蛛よろしくくたばりおったわ。いまごろはどこか隅のほうで腐れかかって、臭いにおいを立てておるにちがいない。
ところがやつらには、それが見えもせず、匂いもせんのじゃ。あれから一年も無沙汰しておるが、おまえは他国者じゃから打ち明けるのじゃ」
「恐ろしいお言葉でございます! ですが、偉大なお聖人さま」修道僧はしだいに大胆になっていった。「あれはほんとうのことでございましょうか、なんでもあなたさまはたえず聖霊と交渉をおもちだとか、たいそうな評判が、ずっと遠方までも広まっておりますが」
「飛んでくるわ、よくな」
「飛んでくると申しますと?どのような姿で!」
「鳥の姿でじゃ」
「鳩の姿をした聖霊でございますか?」
「それは聖霊、神霊はちがう*6。神霊は別ものでな、それはほかの鳥の姿でもおりてこられるのじゃ。ときにはつばめ、ときにはかわらひわ、ときには四十雀(しじゅうから)の姿をしてな」
「その四十雀がそれだとどうしておわかりで?」
「ものを言うのじゃ」
「ものを言うと申しますと、どのような言葉で?」
「人間の言葉でじゃ」
「どんなことをおっしゃいますので?」
「たとえばきょうは、馬鹿者が訪ねて来おってくだらん質問をするとお告げがあったぞ。おぬしはまったくいろいろと知りたがるやつじゃな」
「恐ろしいことをおっしゃいます、聖なる聖人さま」修道僧は頸(くび)を横に振った。とはいえ、そのおびえたような目には不信の色もうかがわれた。
現代のいかがわしい新興宗教やスピリチュアルも同様ですね。宇宙神だの、オーラだの、でたらめな話を並べて、無知な人々を惑わせます。すがりたい、救われたい人ほど、神秘的な姿や言動、ストイックな暮らしぶりに感銘を受けて、出家したり、高額のお布施したり、人生までメチャクチャにしてしまいます。
しかし、それは裏を返せば、「自分は特別だ」という自負があるからで(能力的にも、不幸の質も)、普通の人は故人に線香を立てて、仏像の前で手を合わせるだけで十分です。にもかかわらず、何やら凄いものを見せられると、簡単に信じてしまうのは、「自分はそそれを受け取るにふさわしい人間だ。一般人とは違う」という思い込みがあるからでしょう。
無知な修道僧も、既存の僧院に疑問を感じていると思います。もっと他に、真理に通じる道があるのではないかと疑っています。そう考えるのは、修道僧の中に、「自分は他の僧とは違う。他の僧には分からないことも、自分には理解できる」という自意識があるからでしょう。普通のやり方では駄目だと思っているのです。
ゾシマ長老が「自分が俗界のだれよりも劣る人間だと自覚するだけでなく ・・・ ゆめ高慢心を起してはなりませぬぞ」と説く所以です。
『 ディアボロス/悪魔の扉(アル・パチーノ / キアヌ・リーブス主演)』という映画で、「高慢こそ、悪魔の最高のご馳走」という台詞がありますが、数ある罪の中でも、「自分は他人より賢く、優れている」という自惚れが、一番罪深いのではないでしょうか。
生まれ出るのは片輪者ばかり ~パイーシイ神父の訓諭
こうした似非キリストが俗界にはびこる様を見て、パイーシイ神父は、これから還俗する若いアリョーシャに強く言って聞かせます。
俗界の科学は、ひとつの大きな力に結集して、とりわけ前世紀からは、聖書によってわれわれに遺された天上の教えのすべてを解き明かしてしまい、この世の科学者たちの容赦ない分析のあとには、これまで神聖とされておったものが何ひとつ残らぬまでになってしまった。
しかし彼らはその個々の部分を解き明かしたのであって、全体は見落しており、その盲目さ加減には呆(あき)れかえるほどじゃ。して、その全体は彼らの眼前にこれまでと同じく厳として立っており、地獄の門(注解参照)もこれに勝つことはない。
そもそもこの全体はこれまで十九世紀の間も生きつづけてきたのであるし、いまも個々の魂の動きのなかに、民衆の動きのなかに生きつづけていはしないだろうか?
一切を破壊しつくしたほかならぬあの無神論者の魂の動きのなかにさえ、それはこれまでと同じく生きておる、確固としてな!
なぜといって、キリスト教を否認した人々も、それに謀反を起している人々も、その本質においては自身がほかならぬキリストと同じ風貌をもち、いまも同じ者としてとどまっておるからじゃ。
今日にいたるも、彼らの知力も彼らの情熱も、その昔キリストによって示された姿のほかには、人間とその尊厳にふさわしい別の姿を創り出すことができなかったからじゃ。
そのような試みもありはしたが、その結果出てきたものは片輪者ばかりだった。
このことは、よいかな、とくに忘れるでないぞ、なぜと言っておまえはいま世を去ろうとしておられる長老によって俗界に出て行くように定められておるのじゃからな。
おそらく、この偉大な日のことを思い出す折、おまえへの心からのはなむけにと与えたわしの言葉も忘れずにいてくれるじゃろう。なにぶんおまえはまだ若いことであるし、俗界の誘惑は大きいから、おまえの力にはあまるかもしれぬでな。さあ、では行くがよい」
これはスメルジャコフに喩えれば、よく分かります。
スメルジャコフは、料理人ながら、なかなか頭のいい青年で、常識もありますが、「神さまは第一日目に世界を創られたけど、太陽や月や星は四日目に創られたんでしょう。それじゃ、第一日目には光はどこから射(さ)していたんです?」などと屁理屈を並べ、養父である忠僕グリゴーリイの信仰を嘲弄します。

中世のように、人々が皆既日食や竜巻を悪魔の仕業と恐れ、身の回りのちょっとした奇跡(病気が治った、今年は豊作だった)を神の恵みと崇めた時代と異なり、科学は、その仕組みを論理的に解き明かして、それらが悪魔の仕業でも、神の奇跡でもないことを証明しました。
理屈を識れば識るほど、畏敬の念もなくなり、信仰心も薄れるのは現代も同じです。新約聖書の『受胎告知(処女マリアが聖霊の力により身ごもる)』『ラザロの復活(死んで四日目に墓の中から起きあがる)』といった奇跡も、現代においては、心底から信じるのも、なかなか難しいでしょう。
その結果、スメルジャコフのように、理屈をごねて、他人の信仰心を愚弄し、一切を虚無に陥れるような冷笑系がもてはやされ、またそれに影響された人たちが社会の秩序を乱したり、他人を傷つけたりするのも、現代では顕著です。
また、中には、新約聖書など、既存の聖典を都合よく解釈して、自分自身が神を名乗る人も後を絶ちません。彼らのターゲットは、オブドルスクの修道僧のような『無知な人々』であり、迷える心の隙に付け入ります。たとえそれが地獄に続く道でも、迷える人は、強く言い切る人、不安な肩を押してくれる人に心惹かれるからです。
オブドルスクの修道僧も、「(フェラポント神父と話した後)、かなりはげしい疑念にとりつかれて、自分に割りあてられた庵室に一人こもっている僧のもとへ戻ったが、それでも彼の心情は明らかにゾシマ長老よりはフェラポント神父のほうに傾いていた」とあるように、当たり前の事を当たり前に説く長老よりも、普通とは異なる意見、ちょっと尖った物の見方に心動かされます。
そうした『自称・神』を、パイーシイ神父は、「キリスト教を否認した人々も、それに謀反を起している人々も、キリストと同じ風貌をもち、いまも同じ者としてとどまっておる」と評します。
なぜなら、「その昔キリストによって示された姿のほかには、人間とその尊厳にふさわしい別の姿を創り出すことができなかったからじゃ」。
神には実体がありません。
見ることも、触ることも、声を聞くこともできないので、人々は、それを信じるために、それに代わる姿や言葉を求めます。
その代表格が『聖書』であり、「ことばは神であった」(ヨハネ福音書)と言われる所以です。
その次が、絵画や彫刻でしょうか。
磔刑や受胎告知など、その場面を目に見える形に表すことで、神や奇跡をイメージすることができます。これは偶像崇拝に繋がる怖れがあり、禁じている宗派もありますが。
また、神は自分の姿に似せて、人を創られたので(旧約聖書・創世記)、人の姿を借りて、この世に現れることに違和感はありません。
人が、イエス・キリストの中に「神」を感じたのも、彼が抱擁や慰撫を通して、神の愛を実践したからです。
しかし、そうした人の心情を利用して、「自称・神」を名乗る者も少なくありません。
むしろ、イエス・キリストの真似をして、病人の身体に手をかざしたりします。
「キリスト教を否認した人々も、それに謀反を起している人々も、キリストと同じ風貌をもち、いまも同じ者としてとどまっておる」というのはその通りですね。
「今日にいたるも、彼らの知力も彼らの情熱も、その昔キリストによって示された姿のほかには、人間とその尊厳にふさわしい別の姿を創り出すことができなかったからじゃ」というのも、結局のところ、イエス・キリストの真似をするのが一番お手軽、ということでしょう。
「その結果出てきたものは片輪者ばかりだった」というパイーシイ神父の言葉も納得です。
純真なアリョーシャだって、いつ、何時、ラキーチンのように野心的な人間に脅かされ、信仰を忘れるかもしれません。
実際、ゾシマ長老の死後、奇跡が起こらなかったことにショックを受け、ラキーチンに誘われるがままにグルーシェンカの住まいに出かけ、彼女が膝に乗って、アリョーシャを愛撫しても、無抵抗に受け入れたりします。
あるいは、『キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい』の喩えのように、過激な思想に感化される危険性も十分に有り得ます。
苦しみが大きいほど、人は当たり前のことに疑いを持ち、他に目の覚めるような真理があるのではないか、と期待するものです。それこそ悪魔の餌食です。
ゾシマ長老の葬儀に乱入し、悲しみに暮れる信徒らの心を惑わしたフェボラント神父は、ある意味、悪魔の一面を示しているのではないでしょうか。
江川卓による注解
うわずり
第Ⅳ編の表題「うわずり」にまつわる注解です。
ちなみに、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)では、『病的な興奮』と表現されています。
懺悔をして聖体をいただきたい
ゾシマ長老がすぐにも訪れる死を予感し、「「ことによると、きょう一日もたぬかもしれぬな」とアリョーシャに話しかけ、つづいて、すぐにも懺(ざん)悔(げ)をして聖体をいただきたいと言われた」より。
洗礼――これによって罪を洗いきよめられ、新しい霊的生命を与えられるとする。子どもにも与えられるが、一生に一度だけ。
傅膏(ふこう)(堅振)――ふつう洗礼のとき、聖膏(聖油)を信者の身体に塗って、心と身体をきよめる。
聖体――パンと葡萄酒の形でイエスの尊体、尊血を受けて、永遠の生命を得る意味で、聖体礼儀(ミサ)のときに行なわれる。正教会では年に一度は領聖(聖体をいただくこと)をすすめている。領聖の前には痛悔機密を受ける必要がある。
痛悔――聖体機密の前夜、特別の場合には同日の朝行われ、司祭の前で告解(ざんげ)して赦罪を得る。
神品――正教の按(あん)手(しゅ)により、信者を教え、伝道する力を受ける。
婚配――信者の男女が結婚するとき、司祭がこれを祝福する。
聖傅(せいふ)――司祭が病気の信者の身体に油をつけることで、罪の赦しと病苦のいやしを得る。病気で危篤に瀕(ひん)した信者に行なうのがふつう。
羊の群
ゾシマ長老の遺言、「神のものなる民衆を愛し、羊の群*3を侵入者どもに奪わせてはなりませぬ」より。
地獄の門
パイーシイ神父の訓戒、「しかし彼らはその個々の部分を解き明かしたのであって、全体は見落しており、その盲目さ加減には呆(あき)れかえるほどじゃ。して、その全体は彼らの眼前にこれまでと同じく厳として立っており、地獄の門*8もこれに勝つことはない」より。