江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【33】 神さまに天国への入場券をお返しする ~子供たちの涙の上に幸福を築けるか?

    怒りを露わにするイワン カラマーゾフの兄弟
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    イワンとアリョーシャは「神はあるのか、ないのか」について真剣に語り合います。イワンは子供たちへの虐待を引き合いに出し、無垢な涙の上に幸福の建物を築けるかと問いかけます。神は認めても、神の創った世界は認めない。だから天国への入場券をつつしんで神さまにお返しする、というイワンの心情が綴られた名場面です。
    目次 🏃‍♂️
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    神が創った世界と幸福の犠牲になる子供たち

    章の概要

    イワンとアリョーシャが神とキリスト教について熱い論議を交わす、料亭≪みやこ≫の場面は、「第3章 兄弟相識る / 第4章 反逆 / 第5章 大審問官」は三部構成になっています。

    カチェリーナと訣別したイワンは、新たな希望を胸にモスクワに旅立とうとしています。その前に、アリョーシャとじっくり語り合いたいと願ったイワンは、二人にとって永遠のテーマである「神はあるのか、ないのか」について、議論を始めます。

    『第Ⅴ編 ProとContra / 第4章 反逆』では、子供たちへの残虐な事件をベースに、「ぼくは神を認めないんじゃないぜ、ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ」と言うイワンの論理が描かれています。

    *

    料亭≪みやこ≫の語らいは、ドストエフスキーの集大成のようなパートです。イワンの声を通して、ドストエフスキーの神とキリスト教に対する疑問(イワン)と回答(アリョーシャ)がドラマティックに描かれています。

    喩え話も多く、一度、読んだだけでは、分かりにくいですが、悲惨な現実を目にして「神も仏もあるものか」と嘆くイワンの心情は現代人にも理解できるのではないでしょうか。

    また、そんなイワンの嘆きと疑問に対して、明確な回答を与えているのがアリョーシャです。(「大審問官」の最後の接吻)

    冒頭、イワンがアリョーシャへの好意を素直に打ち明け、アリョーシャもそんな兄の出立を応援する、この兄弟愛を感じることができれば、アリョーシャの回答にも納得できると思います。

    そして、アリョーシャの回答は、「第Ⅱ編 場ちっがいな会合」で、ゾシマ長老がイワンに言う、「まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように!」という励ましの言葉に連なるものです。

    なぜゾシマ長老はイワンを祝福したのか、冷笑系スメルジャコフとの違いは何か、考えながら読むと、作品全体のメッセージが見えてくると思います。

    このパートを縦書きPDFで読みたい方は下記リンクからどうぞ。PC・タブレット推奨。閲覧のみ(59ページ)
    第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官 (Googleドライブ)

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より(1分クリップ)

    子供への残虐な仕打ちに憤るイワンと、「銃殺にすべきです!」と思わず叫んでしまうアリョーシャ。

    イワンの激しい口調に圧倒されるアリョーシャ(かわいい)
    イワンの発言に驚くアリョーシャ カラマーゾフの兄弟

    料亭≪みやこ≫の場面を最初から見たいかたはYouTubeでどうぞ。(1時間7分より)
    https://youtu.be/z_U-juAzXik?t=4063

    人間は近づきすぎると愛せない

    【32-2】神は人間が考え出したもの 僕は神の創った世界を認められないのだ(イワン)の続きです。

    神なるものと現実の不条理の狭間で心を悩ませるイワンは、「ぼくのほうがおまえの力で治療してもらいたいのかもしれないんだ」という気持ちを前提に、アリョーシャに人類愛の疑問を投げかけます。

    「ぼくは身近な人間をどうして愛することができるのか、どうやってもわからないんだ。ぼくに言わせると、身近だからこそ愛することができないんで、愛せるのは遠くにいる者にかぎるんだよ。

    ぼくはいつだったかある本で《恵み深きヨアン(注解参照)》(そういう聖者がいたんだ)の話を読んだことがある。あるとき、飢えて凍えた一人の旅人が彼を訪れて来て、自分を暖めてくれと乞われた。するとその聖者は彼と一つ寝床に寝てやって、彼を抱きしめ、何かの恐ろしい病気のために腐りかけてすさまじい悪臭を放つ彼の口へ息を吹きかけてやったと言うんだ。

    ぼくの確信によると、その聖者がそんなことをしたのは、偽りの感情でうわずりになったせいで、義務感に命じられた愛のため、自分に課した宗教的懲戒のためだったに相違ないと思うんだ。

    ある一人の人間を愛するためには、その相手に隠れていてもらわなくちゃだめだ、ほんのちょっとでも相手が顔をのぞかせたら、愛はたちまち消えてしまうのさ\

    「身近だからこそ愛することができない」「ほんのちょっとでも相手が顔をのぞかせたら、愛はたちまち消えてしまうんだ」というのは本当にその通りですね。

    人類愛や社会正義を声高々に叫ぶ人が、家庭内においてはメチャクチャだったり、実生活では一人の友だちもなかったり。

    「人類」というマッス(集団)としては愛せるけど、いざ、その中の一人が、自分に個人的に近づいてきたら、たちまち厭気がさして、遠ざけてしまうタイプです。

    逆に、身近な人間関係と良好な関係を構築している人は、むやみやたらと「人類愛」を唱えたりしません。様々な揉め事、譲歩、忍耐、理不尽などを通して、そんなものは幻想だと分かっているからです。

    ただ、この台詞からは、身近な人間関係にさえ、完璧な愛を求めるイワンの潔癖さが垣間見えます。

    カチェリーナの中途半端な結婚話に立腹したのも、カチェリーナが自分よりドミートリイを愛しているからではなく、自分の面子を守る為に、愛してもないドミートリイとの結婚話を進め、なおかつ、それを自分で認めようとしないからですね。白か黒かのイワンにとって、愛というものは、自分にも他人にも、決して偽ってはならないものなのです。

    それに対して、アリョーシャは次のように答えます。

    「それはゾシマ長老がなんどもおっしゃったことです」とアリョーシャが口をはさんだ。「あの方も、人間の顔は、まだ愛の経験を積んでいない多くの人々にとって、しばしば愛することの障害になる、とおっしゃっておいででした。でも、人間にはさまざまな愛の形があって、なかにはほとんどキリストの愛にひとしいようなものさえありますよ、これはぼく、自分でもわかるんです、イワン……」

    「人間の顔」というのは、それぞれの個性ですね。

    人類というマッスに個性はないですが、各人には個性があります。神経質、内向的、攻撃的、悲観的。合う人もあれば、合わない人もあり、それが四苦八苦を引き起こします。

    それでも、神のように愛せる人もある……とアリョーシャは言いたいわけです。なぜなら、彼自身が、淫蕩父フョードルも、血の気の多いドミートリイも、複雑なパーソナリティをもつイワンも、それぞれに愛しているからです。

    悪魔は人間が自分の姿に似せて創った

    イワンは、自身の「思想の苦悩」について、アリョーシャに語り聞かせます。

    その際、「人類一般の苦悩」では尺度が長すぎるので、「子供」にフォーカスして、その苦悩を語って聞かせます。

    ここでは、執筆当時、実際に新聞で報じられた数々の虐待事件が引き合いに出されます。

    どれも創作か? と疑うような、残虐さなので、読んでいて気分が悪くなりますが、2022年、露軍がウクライナでしたことを思えば納得ですね。

    ■ Case 1

    ブルガリアでの実例。
    トルコ人やチェルケス人が、スラヴ族の一斉蜂起を恐れて、家を焼く、人を斬る、女子供に乱暴を働く。
    逮捕者の耳を塀に釘づけにしたまま、朝まで放置し、夜が明けるとしばり首にする。

    ■ Case 2

    トルコ人。
    乳呑み子を空中にほうり投げておいて、それを母親の見ている前で、銃剣で受けて見せる。
    赤ん坊をあやして、赤ん坊が笑うと、いきなり至近距離から、その顔をピストルで撃ち抜く。

    ■ Case 3

    ロシアの百姓。
    痩せ馬が重すぎる荷物を曳かされて、ぬかるみにはまると、馬を殴り、≪おとなしい目≫を狙って鞭打つ。

    ■ Case 4

    知識人の紳士と奥さん。
    紳士の父親は、『お仕置き』と称して、娘を鞭打ち、しまいにそれが快感になって、「パパ、パパってば!」とあえぐようになる。
    裁判で訴えられても、「父親が娘を折檻しただけ(躾をしただけ)」と開き直り、無罪になる。

    ■ Case 5

    哀れな孤児リシャール。
    成人してから盗みを働き、老人を殺したかどで死刑の宣告を受ける。監獄の中で読み書きを教わり、信仰に目覚め、町中の信仰篤い慈善家に感銘を与えるが、死刑執行の日、「今日はお前の生涯で一番幸せな日。主のみもとに行けるんだからね」と励まして、本当に斬首してしまう。死刑が彼らの祝福。

    ■ Case 6

    教育も教養もある官吏の夫婦。
    五歳の娘を鞭で打ったり、足蹴にしたり、全身、あざらだけにした挙げ句、娘が大便を教えなかったというだけで、娘の顔にうんこを塗りたくり、一晩、便所の中に閉じ込める。

    ■ Case 7

    19世紀の初め、農奴制のもっともひどかった暗黒時代。
    大金持ちの将軍は数百頭の犬を狩っていたが、あるとき、召使いの息子で、8歳になったばかりの男の子が、石投げをして遊んでいるうちに、将軍のお気に入りの猟犬の足に怪我をさせてしまう。
    すると、将軍は、少年を丸裸にし、母親の目の前で猟犬の群れをけしかけ、ずたずたに引き裂いてしまう。

    「やつをどうするね? 銃殺にすべきだろうか? 道徳的感情を満足させるために銃殺に処すべきだろうか? 言ってみろよ、アリョーシャ!」

    銃殺にすべきです!(注解参照)」青白い、ゆがんだような微笑を浮かべて兄の顔を見あげると、アリョーシャは小声にこう言った。

    子供への残虐な仕打ちについて語るイワンとアリョーシャ

    イワンの論点は、「大人は、りんこの実を食べて、善悪を知り、《神のごとく》なってしまった。そしていまもりんごの実を食べつづけている。しかし子供たちは何も食べなかったし、いまのところはまだなんの罪もない」という点にあります。

    たとえば、うんこを顔に塗りたくられた五歳の女の子は、なぜ親からそのような罰を受けるのか分かりません。

    寒い、まっ暗な便所の中で、ちいちゃな拳を固めて張り裂けるような胸を叩いたり、血の出るようないたいけな涙をぽろぽろこぼしながら、どうぞお助けくださいって、《神ちゃま》にお祈りをしたりするんだよ。≪中略≫

    こういうことがなければ、人間は善悪を識別できず、この地上に存在できないなんて言うやつがいる。しかし、こんな代価をはらってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにあるんだ? 

    認識の世界全体をもってきたって、この子供が《神ちゃま》のために流した涙ほどの価値もないじゃないか。ぼくは大人の苦しみについては言わない。大人はりんごを食べてしまったんだから、どうなろうと知ったこっちゃない、悪魔にでもさらわれるがいいんだ、だがこの子供たちは、子供たちはどうなんだ!

    大人が苦しむのは自業自得ですが、子供はそうではありません。

    大人の都合を一方的に押しつけられ、痛めつけられるだけです。

    こうした不条理に対して(あるいは愛という名の一方的な暴力に対して)、祈りや信仰がどれほどの意味を持つのか。

    そうと分かっても、イワンにはどうすることもできません。

    ゆえに自分にも、世界に対しても、怒ってるわけです。

    人間のこうした残虐な一面について、イワンは次のように表します。

    実際、よく人間の残忍な行為を《野獣のようだ》なんて言うけれど、これは野獣にとってひどく不公平だし、失礼だよ。野獣はけっして人間みたいに残忍になれないし、あんなに巧緻に、あんなに芸術的には残忍になれないよ。

    虎はただ噛んだり、引き裂いたりするだけで、それしか能がない。人間の耳をひと晩釘づけにしておくなんてことは、もしできるとしたって、どだい思いつくわけがない。

    「ぼくは思うんだが、もし悪魔が実在するものではなくて、つまり、人間が創ったものだとしたら、人間は自分の姿かたちに似せてそれを創ったわけだね

    神は人間が創り出したものなら、悪魔も人間の映し鏡でしょう。

    元々、自分の中に、邪悪な部分があるから、絵に、文章に「悪魔の造形」を創り出すことができるのです。

    入場券をつつしんで神さまにお返しする

    イワンは人間の罪深さを認めた上で、自身の苦悩が、和解と調和によって救われることを願います。

    「ぼくには応報が必要なのさ」というひと言が、彼の心情を物語っていますね。

    被害者と加害者の抱擁や、鹿がライオンのすぐ横に寝そべるような、奇跡的な事例によって、「やはり信仰(神)は正しかった」と実感することです。

    つまりは、人間自身が悪いんだな。人間にはせっかく天国の楽園が与えられたのに、自分が不幸になるとわかっていながら、自由をほしがって、天上の火を盗んだ(注解参照)、だから人間を憐れむ必要なんか何もないんだ。

    ああ、ぼくの頭脳、みじめな、地上的な、ユークリッド的なぼくの頭脳に従えば、ぼくが知っているのはただ、苦悩が存在するということと、そのことに罪を負える人間などいないということ、万事は単純明快に原因から結果が生じ、万物が流転し、おのずと均衡を保っていくということだけだ、――≪中略≫

    罪ある人間がいないからって、それをぼくが知っているからって、何になるんだ、――

    ぼくには応報が必要なのさ、でなければぼくはただの自滅の道をたどっているだけじゃないか。

    その応報も、いつか無限のかなたのどこかでというのじゃだめで、どうしてもこの地上で、ぼくがこの目で見とどけられるように実現してほしいんだ。

    ぼくはその実現を信じてきた、ぜひともそれを見とどけたいと思う。そして、もしその時にぼくがもう死んでいるようなら、ぼくを生き返らせてほしい、だってすべてがぼくのいないところで起るとしたら、癪じゃないか。≪中略≫

    ぼくは自分のこの目で、鹿がライオンのすぐ横に寝そべり(注解参照)、斬り殺された男が立ちあがって、自分を斬り殺した男と抱き合うさまを見たいんだよ。

    この世のすべてがなんのためにこうなっていたかを、万人が忽然と悟るようになるとき、ぼくもその場に居合わせたいんだよ。

    ただ、それが実現したとして、子供はどうなるのかとイワンは問いかけます。

    たとえ、奇跡が起きて、母親が子供を殺した加害者と抱き合って、「主よ、汝は正し!」と叫んだとしても、僕は叫びたくない。

    なぜなら、子供の涙がつぐなわれないままになっているからです。

    頼むから、教えてくれよ。どういうわけで子供たちまでが苦しまなければならないのか、調和をあがなうためにどうして子供たちの苦悩が必要なのか、ぼくにはさっぱり理解できない。なんだって子供たちまでが材料にされて、だれかの未来の調和のために肥料にされなけりゃならないんだ? ≪中略≫

    ねえ、アリョーシャ、ぼくは何も神を冒潰しているんじゃないよ! 

    天上のものも、地下のものも、すべてが一つの讃美声に溶け合って、生きとし生ける者が声を合わせて、『主よ、汝は正し、汝の道の開けたればなり!(注解参照)』と叫ぶとき、この宇宙の震撼がどれほどのものであるか、ぼくにはよくわかっているつもりだ。

    そして例の母親が、自分の息子を犬に引き裂かせた加害者と抱き合って、三人が涙ながらに、『主よ、汝は正し』と叫ぶとしたら、そのときにはもう言うまでもなく、認識はその極致をきわめ、一切が説明を見出すことになるだろう。

    ところが、ここにはまたコンマが入ってね、ほかでもないそのことがぼくには認められないんだ。だからぼくはこの地上にいる間、自分なりの方策を講じようと急いでいるんだ。

    子供を殺した加害者と抱き合っている母親を見ながら、このぼくまでがついみんなと声をそろえて、『主よ、汝は正し!』と叫んでしまうかもしれないということさ、しかしぼくはそのときに叫びたくないんだ。

    イワンの論点は、「神はすべてを赦す」という点にあります。

    神の愛、神の赦しに従えば、あれほど酷い事をした犬好きの将軍も、女の子の顔にうんこを塗りたくった良心も、赦されるわけですよね。

    大人はそれで納得しても、痛めつけられた子供の苦悩はどうなるのか。

    愛の名のもとに、こんなひどい人間を赦してしまっていいのか。

    たとえ、子供の母親が犬将軍を赦し、「主よ、汝は正し!」と叫んだとしても、僕はそんなものに同調したくない。

    そんな赦しは、インチキであり、偽善だと。

    そして、それを「最高の調和」と讃え、「天国に入るための条件」として、万人に取り繕ったような慈愛や寛容さを要求するならば、僕は天国に入れなくても構わない、そんなインチキみたいな入場券は、つつしんで神さまにお返しする――というのがイワンの主張です。

    彼らが赦すわけにいかないとしたら、いったいどこに調和があるんだ? 

    いったいこの世界に赦すことのできる人、赦す権利をもった人がいるものだろうか? 

    ぼくは調和なんて欲しくない、人類を愛するからこそ欲しくないんだ。

    ぼくはむしろあがなわれることなく終った苦しみとともにとどまりたい。あがなわれなかったぼくの苦しみ、癒されなかったぼくの憎しみを、たとえぼくがまちがっていようと、いつまでも抱えていたいんだ。

    それに調和ってやつが、えらく高価に値踏みされているじゃないか。そんな高い入場料を払ってまで入るのはこっちのふところ勘定に合わないよ。

    だからぼくは自分の入場券をいそいでお返しするんだ。いや、もしぼくが恥を知る人間であるなら、それをできるかぎり早く返すのが義務なんだよ。だからぼくはそうするまでさ。ぼくは神を認めないんじゃない、アリョーシャ、ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ

    すべての罪を赦すことができる人 ~赦しこそ幸福の礎

    そんなイワンの主張に対して、アリョーシャは「反逆です」と答えます。

    すると、イワンは、『罪と罰』によく似た命題を出します。

    『罪と罰』では、欲深い老婆を殺して、その金を貧者や病者に役立てれば、一つの死によって、万人の命を救うことができる――というものでした。

    ここでは、「一人の人間の涙(犠牲)」を土台として、人類全体の幸福を築き上げることができるか、という喩え話です。

    アリョーシャは「承諾できない」と答えます。

    「仮におまえが、究極において全人類を幸福にし、宿願の平和と安らぎを人類にもたらすことを目的として、人類の運命という建物を自分で建てていると仮定しよう、ところがそのためには、たった一人だけだが、ちっぽけな、ちっぽけな一人の人間を責め殺さなければならないとする、それは、たとえば、小さな拳を固めて自分の胸を叩いていた例のあの子でもいい、そして、その子のあがなわれない涙の上にこの建物の土台を築くことが、どうしても避けられない、不可欠なことだとする、だとしたら、おまえはそういう条件でその建物の建築技師になることを承諾するだろうか、さあ、嘘はぬきで答えてみてくれ!」

    「いや、承諾しないでしょうね」アリョーシャは小声で言った。

    ついで、イワンは二つ目の命題を出します。

    「子供のいわれのない血の上に築かれた幸福を自分からすすんで受け入れ、また、それを受け入れたからには、永久に幸福であり続ける」という考え方は是か非か、です。

    こういうのは、土地開発に喩えると分かりやすいです。

    駅前に大きな商業施設を建てたいが、計画を実現するには、駅前の商店街を潰さなければいけません。昔から商いしてきた人にとっては、自分の人生に等しいものです。しかし、町全体の発展を考えれば、古臭い商店街は潰して、お洒落なショッピングセンターに建て替えた方が、はるかに万人の利益になります。

    「俺たちの町の発展のために、あんた達が犠牲になってくれ」という訳ですね。

    そして、目論見どおり、駅前が見違えるように綺麗になり、「我が町も発展したなあ」と大勢が喜んでいる傍らで、自分の人生に等しい店を失った人は泣いている。

    でも、町が発展するなら、ええじゃなか、という考え方です。

    それについて、アリョーシャはきっぱり否定します。

    「じゃ、おまえはこういう考え方を認めることができるかい、つまり、そうやっておまえに建物を建ててもらっている人たちが、責め殺された子供のいわれない血の上に築かれた自身の幸福を自分からすすんで受け入れて、いったんそれを受け入れたからには、永久に幸福でありつづけるだろう、という考え方さ」

    「いいえ、認められません。兄さん」アリョーシャはふいに目をきらきらと輝かせて言った。

    この世には一切の罪を赦すことができる人がいる

    こうしたイワンの問いかけを否定しながらも、アリョーシャは「一切の罪を赦すことができる人」について指摘します。

    「兄さんはたったいま、この世界に赦すことのできる、赦す権利をもった人がいるだろうか、と言いましたね。ところが、そういう人はいるんですよ。その人はありとあらゆる人、ありとあらゆるものに対して、しかも一切の罪を赦すことができるんです。なぜって、その人はあらゆる人、あらゆるものに代って、自身の無実の血を捧げられたからです。兄さんはこの人を忘れていましたね、その建物だって、その人を土台にしてこそ築かれるんですよ、その人に向かってこそ、『主よ、汝は正し、汝の道の開けたればなり』の叫びが寄せられるんじゃありませんか」

    つまりは、イエス・キリストです。

    アリョーシャいわく、イエス・キリストは、未来永劫、全人類の罪を購って、十字架にかけられたのだから、残酷な犬将軍やうんこ塗りたくりの親も赦されると考えます。

    そうした気持ちがあればこそ、人類の、真の幸せも築かれるからです。

    それは犯罪者にとって、ずいぶん虫の好い話では……と思うかもしれませんが、仮に、赦しのない世界を思い描いてみましょう。

    そこでは、些細な過ちも赦されず、罪人は徹底的に糾弾され、処罰されます。

    社会的には当然かもしれませんが、もし、そうして、すべての罪人が永久に赦されることなく、社会に戻ることも認められないとしたら、それこそ救いようがないですね。中には、改心して、もう一度、人生をやり直したいと思う人もあるかも知れません。その気持ちはどうなるのか。

    そこまで人を追い詰めてしまったら、改悛する機会も、永久に失われると思いませんか?

    「罰だけが存在する世界」は、一見、公明正大ですが、人間には優しくない世界です。

    ゆえに、残酷な犬将軍も赦してくれる存在は必要だし、そうした慈愛の存在があればこそ、人類も真の意味で幸せでいられる――とアリョーシャは言いたいわけですね。(私も上手く説明できませんが)

    そこでイワンは、自分が創作した「叙情詩」のことを口にします。

    これが有名な『大審問官』です。

    「ああ、それは《唯一の罪なき人》と、その人が流した血のことだろう! いや、忘れてなんかいるもんか、それどころか、おまえがいつまでもその人のことを持ち出さないので、さっきから不思議に思っていたくらいだよ。だってこういう議論になると、おまえのお仲間たちはたいていまずまっ先にその人を持ち出してくるじゃないか、ところでね、アリョーシャ、笑っちゃいけないよ、ぼくは以前、一年ほど前になるかな、叙事詩を一編作ったことがあるんだ。もし、あともう十分間、ぼくと暇をつぶしてくれる気持があるなら、ひとつ話して聞かせたいんだがね」

    続く → 【34】 大審問官 悪魔の現実論を論破せよ ~アリョーシャの接吻の意味

    【補足】

    現代とカラマーゾフの時代の決定的な違いは、児童福祉の概念や法整備があるかどうかだと思います。

    イワンの生きた時代は、大人ですら虐げられ、懲罰や人権侵害が日常的に行なわれていました。

    ある意味、イワンの不信は、政治や司法に何も期待できない時代の無力感であり、それゆえに、イワンのような意識の高い若者は、キリスト教ではなく、自由平等や科学万能主義に救いを求めたのではないかと。そして、それが、1917年のロシア革命に繋がっていきます。

    本作の連載中も、多くの若者が共感したことでしょう。

    ロシア革命とドストエフスキーの結びつきは、歴史的、学術的に、どのように分析されているのか、私も詳しいことは分かりませんが、少なからず影響を与えたのは確かだと思います。

    そして、ドストエフスキーも、もう少し長生きしていたら、イワンとその予備軍に、納得がいく回答を示すことができたかもしれません。

    もちろん、成長したアリョーシャを通して――。


    大審問官に連なるイワンとアリョーシャの「神はあるのか」談義は、喩え話も多いので、特に難解なパートです。
    しかし、現実の戦争犯罪に置き換えれば、イワンが何に憤り、Noを突きつけているのか実感できると思います。
    猟犬の群れに子供を惨殺された母親と犬将軍が抱き合うことが永遠の調和としたら、僕はそんなまやかしの幸福は要らないと叫ぶイワンの心情を、ウクライナ侵攻になぞらえて解説してみました。
    社会的に処すことと魂の救済は違う、という話です。参考にどうぞ。

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