江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【39】 世界を変えるのは人の心から ~告解と改悛と赦しの意義

    ゾシマ長老の最後の訓諭 カラマーゾフの兄弟
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    目次 🏃‍♂️

    世界を変えるのは人の心から

    章の概要

    ゾシマ長老の伝記とドストエフスキーの遺言 ~ヨブ記のエピソードよりの続きです。

    死に瀕して、ゾシマ長老は、アリョーシャや神父らに最後の訓諭を与えます。

    ゾシマ長老に特に大きな影響を与えたのは、早逝した兄マルセルでした。傲慢で、キリストを嘲るような事を口にしていた兄は、結核を患い、死期を悟ると、心から悔い改め、愛に満ちた人間に生まれ変わります。

    子供時代、聖書に親しんだゾシマ長老は、財政難を訴えるロシアの修道僧らに、「彼ら(民衆)にこの本を開いて見せ、むずかしい言葉はさけ、尊大な、高ぶった態度は見せずに、ただおだやかな感動をこめて読むがよい」と、聖書の美しいエピソードを誰にでも分かる、やさしい言葉で語りかけるよう訴えます。そうすれば、多くの信者が訪れ、司祭の収入も訪れ、社会も深い情けと感謝の念に包まれるだろう、と。

    さらに、ゾシマ長老は、自身の青年時代の過ちと、決闘を回避した経緯、長老の噂を聞いてやって来た謎の訪問者と、彼の殺人の告白について語ります。

    『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第2章 神のもと永遠の生に就かれたる修道苦行司祭ゾシマ長老の一代記より、長老みずからの言葉をもとにアレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフこれを編む』の「俗界にありしゾシマ長老の青年時代の思い出。決闘」「謎めいた訪問者」では、若き日のゾシマ長老が失恋の恨みから決闘をふっかけ、寸手のところで改心する話、それを聞き知ったある男性が過去の殺人を告白し、改悛するまでの過程が描かれています。

    ↓ 死にそうに長い 😅 

    ゾシマ長老の伝記的資料 章立て

    第2章 
    神のもと永遠の生に就かれたる修道苦行司祭ゾシマ長老の一代記より、
    長老みずからの言葉をもとに
    アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフこれを編む

    • ゾシマ長老の年若き兄
      → 傲慢だった兄マルケルが結核になり、悔い改める
    • ゾシマ長老の生涯における聖書の意義
      → 幼少時に親しんだ聖書の思い出。ロシアの司祭らへ。聖書の物語を民衆に語って聞かせよと訓諭
    • 俗界にありしゾシマ長老の青年時代の思い出。決闘
      → 青年期、失恋の憂さ晴らしで他人に絡み、決闘になるが、途中で改心
    • 謎めいた訪問者
      → 町の名士が長老の元を訪れ、過去に犯した殺人について告解する。長老は神の道を志す

    第3章 ゾシマ長老の談話と説教より

    • ロシアの修道僧とそのもちうべき意義について
      修道僧はどうあるべきかの訓諭
    • 主従について、主従は精神的に互いに兄弟となりうるか
      → 聖職者と民衆の関わりについて訓諭
    • 祈りと、愛と、他界との接触について
      → 若者や友人へのメッセージ。理想の生き方とは。
    • 人は同胞の裁き人となりうるか? 最後までの信仰について
      → 人を裁いてはならない
    • 地獄と地獄の火について、神秘論敵考察
      → 地獄とは何か。

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。

    映画でも、2007年度のTVドラマ版も、伝記資料のパートは映像化されておらず、訓諭のみになっています。

    俗界にありしゾシマ長老の青年時代の思い出。決闘

    ゾシマ長老にもほろ苦い青春期があったようで、ペテルブルグの陸軍幼年学校に八年間、在学した後、連隊の将校になります。

    いわく、「私はいくつもの新しい習慣や新しい見解をまで身につけるようになり、ほとんど野蛮に近い、冷酷で、無軌道な人間に変貌をとげた」「最大の問題は、私がふいに自分の財産を持つようになったことで、そのために私は青年の血気にまかせて、放縦そのものの生活をはじめ、満帆に風をはらませて思うさま突っ走る勢いだった」とのこと。僧院でのイメージとずいぶん異なりますね。だからこそ、ドミートリイの身の上にも理解があったのかもしれません。

    一方、聖書も大切に持ち歩き、《その日その時、その月その年》に備えていたとのこと。

    その時は重要性を認識しなくても、何かを予感して、「あるもの」をは大切に持ち続けるのは、現代人も同じです。

    当時の私は読書もけっこうしていて、むしろそれに大きな満足感を覚えていたことである。もっとも聖書だけは当時の私はほとんど一度もひもといてみることをしなかったが、そのくせ一度も聖書を手放したことはなく、どこへ行くにもそれを持ち歩いていた。まこと私はこの一冊の書物を、自分でもそれと知らず、《その日その時、その月その年》(注解参照)のためにこの本を大事にしていたのであろう。

    若きゾシマ氏は、若く美しい令嬢に心ひかれ、結婚も意識しますが、その時にはすでに立派な婚約者があり、ゾシマ氏が二ヶ月の出張を終えて、再び都に戻って来た時には、すでに夫婦として結ばれた後でした。いわば、ゾシマ氏の一人相撲だったわけですね。

    腹の虫が治まらないゾシマ氏は、『わがライバル』に因縁をつけて、ついに決闘の運びになります。

    その過程で、ゾシマ氏は、従卒のアファナーシィにむかって腹を立て、「二度ばかり彼の顔を力まかせに殴りつけて、顔を血だらけにしてしまった」とのこと。やっていることが、まるでドミートリイと同じです。

    そして、決闘の朝、美しい朝日の中で、ゾシマ氏は、突如、従卒アフィナーシイに対して、悔恨の情を抱きます。

    兄マルケルの言葉、「ぼくの大事な人たち、どうしてきみたちはぼくに仕えてくれるの、どうしてぼくを愛してくれるの、いったいぼくにそんな値打があるだろうか?」を思い出し、「ほんとうに私は万人に対して、ことによると、他のだれよりも罪が深いのではないか、この世のだれにもまして私はいけない人間なのではないか!」と悔悟の涙を流します。

    そして、アファナーシイの部屋に行くと、彼の足元にがばと身を投げ、額を床にこすりつけて、「ぼくを赦してくれ!」と心の底から詫びます。

    ゾシマ氏は、決闘の場に向かいますが、自分のピストルをつかむと、くるりと後ろを向いて、森の中めがけて投げこみ、「どうかこのぼくを、愚かな若僧のぼくを赦してください!」と決闘相手(恋のライバル)に懇願します。

    この一件は、たちまち軍の間に広まり、非難する者もあれば、弁護する者もあり、反応はいろいろです。

    しかし、ゾシマ氏の腹は既に決まっていて、軍の事務所へ退役願いを出すと、僧院に行く決意を打ち明けます。

    周りの人々、とりわけ婦人たちは、ゾシマ氏の話に興味をもち、「すべての人に対して罪があるなんて、そんなことがあるものでしょうか」と疑問を呈します。

    「とてもあなた方にはそこまでわかっていただけないでしょうよ、なにせ全世界がもうとうの昔から別の道へ進んでしまって、まったくの嘘を真実のように思いこんだり、他人に対しても同じような嘘を要求したりしていますからね。現にぼくが生れてはじめて思いきった真心からの行為に出てみたら、どうでしょう、ぼくはまるでみなから聖痴愚(ユロージヴイ)(注解参照)扱いじゃありませんか。なるほどぼくを愛してはくださるけれど、みなさん、ぼくのことをお笑いですものね」

    何気ない会話ですが、この頃から、ゾシマ長老の話には説得力があること、とりわけ、婦人に人気があったことが窺えます。
    (参考→ 【6】 僧院の『薔薇の谷間』とゾシマ長老の女好き ~薔薇は何を意味するのか

    謎めいた訪問者 ~殺人の告白

    孤立の時代を終わらせるために

    そんなゾシマ氏の前に、一人の紳士が現れます。地位も高く、みなの尊敬を集めている富裕な人物で、若い妻との間に幼い三人の子供があり、慈善家としても知られていました。

    紳士は、ゾシマ氏の噂を聞きつけ、過去の殺人の告白にやって来たのです。

    (紳士いわく)「あなたは実にたいし精神力をお持ちです。なぜと言って、ご自分の真理のために万人の侮りを受けるかもしれないあのような事態に臨んで、恐れず真理に仕えることがおできになったのですから。 ≪中略≫ 天国は、わたしたち一人びとりの中に秘められているのですね。現にそれはいまわたしの中にもかくされていて、もしわたしがその気になれば、あすにも実際にそれがわたしに訪れて、もう生涯消えることはないはずです」――

    「それにしても」と私は悲哀をこめて叫んだ。「それはいつ実現されるのでしょう、そもそもいつの日か実現することがあるのでしょうか? これはたんなる夢想でしかないのではないでしょうか?」――

    「それでは、あなたご自身も信じておられないのですね。人にはそれを説きながら、ご自分では信じておられない。いいですか、この夢想は、あなたがおっしゃっているように、かならず実現するものなんですよ、そのことは信じてくだすってもいい、ただいますぐにではありませんよ、なぜならすべての動きにはそれなりの法則があるからです。これは精神的、心理的な問題でしてね。世界を新しく改造するためには、人間自身が心理的に方向転換をしなければならないんです。自分がだれに対しても兄弟のようにならないかぎりは、兄弟愛の時代はやって来ません。人間はどんな科学、どんな利益をもってしても、自分たちの財産や権利をなんのわだかまりもなく分け合うことはできないのです。だれもが自分の分け前は少ないと思い、たえず不平をこぼし、他をうらやみ、お互い殺し合うことになるのです。それがいつ実現するのかと、あなたはおたずねですね。実現することはまちがいありませんが、その前にまず人間の孤立の時代が終らなければなりませんね

    紳士が言う「それでは、あなたご自身も信じておられないのですね」という言葉は、フョードル・カラマーゾフがイワンとアリョーシャの「神はあるのか、ないのか」談義で口にする、「ありゃイエズス会だよ、ただしロシア式のな。育ちのいい人間だものだから、胸の中には秘められた憤懣が煮えたぎっているぞ、なにしろ芝居を打たなきゃならんからな……むりにも聖人をよそおってさ」にかぶりますね。

    アリョーシャが「でも、あの人は神を信じているじゃないですか」と言うと、「これっぽっちも信じちゃおらんよ。おまえ知らなかったのかい?」とフョードルは返します。

    「若い頃は信じてなかったが、老境に達してから信じるようになった」という風ではなく、やはりフョードルの指摘する通り、どこか懐疑的であり、それを自覚した上で、人々の求めている聖人であろうとしている、そんな印象を受けます。

    また、訪問者の言う『世界を新しく改造するためには、人間自身が心理的に方向転換をしなければならない』というのは、『世界はわたしの表象である』の書き出しで有名なショーペンハウアー、『我思う、ゆえに我あり』のデカルトなどを想起させます。現代でも、自己啓発とにおいて、似たような事は語られていますが、ドストエフスキーにおいても、『内なる革命』が示唆されているのは興味深いですね。

    さらに訪問者は、現代社会の病巣でもある『孤立』について、次のように述べます。

    「・・(天国が)実現することはまちがいありませんが、その前にまず人間の孤立の時代が終らなければなりませんね」――

    「その孤立というのは何です?」私がたずねる。

    「現にいたるところに支配しているような孤立ですよ、今世紀になって、それはとりわけひどくなりましたが、それはまだまだ終っていないし、終るべき時期も来ていないのです。

    なぜなら、いまはだれもが自分の個をできるかぎり他から切りはなし、自分自身の中で生の充実を味わおうとしています。けれど彼らの懸命の努力にもかかわらず、その結果は生の充実どころか、まったくの自殺行為になっています。なぜなら彼らは自身の存在を完全に位置づける代りに、完全な孤立に陥っているからです。

    なぜなら今世紀においては万人が個別に分裂して、だれもが自分の穴に閉じこもろうとし、だれもが他人から遠ざかって、自分の身も、自分の所有物も他から隠そうとし、あげくは自分が他の人々に背を向けられ、逆に自分も他の人々に背を向ける結果になっているからです。

    一人でこっそりと富を蓄えては、自分はもうこんなに強くなった、こんなに安定したと考えていますが、しかし、富を蓄えれば蓄えるほど自殺的な無力さにはまり込んでいることには、愚かにも気がつかないでいるのです。というのは、自分一人の力だけを恃(たの)むことに慣れ、個としての自分を全体から切りはなし、他人の助力も、世の中の人間も、人類全体も信じないように自分の魂を慣らして、ただひたすら自分の金や、ようやく手に入れた自分の権利を失いはすまいかと、そればかりにおびえているからです。

    今日いたるところで人間の知性は、個の真の安定は、個々人の孤立した努力にあるのではなく、人間全体の一体性の中にこそあるということを、一笑に付して顧みようともしなくなっています。

    しかしこの恐ろしい孤立状態にもかならずや終りが来て、お互いが離ればなれになってしまったのがどんなに不自然なことであるかを、みなが一時に会得するようになるでしょう。時代の風潮そのものがそういうふうになって、よくもあれほど長いこと闇の中に座して、光明を見ないでいられたものだと、われなから驚く日が来るに相違ありません。そのときこそ人の子のしるし(注解参照)が天上にひるがえるのです……

    しかしそのときまではやはり理想の旗を大事にかかげていかなければならないし、ときにはたった一人であっても、敢然と範を示して、人間の魂を孤立状態から同胞愛的な結合の偉業へと導かねばならないのです、たとえそれが聖痴愚(ユロージヴイ)のふるまいと見られようとも。これこそ偉大な思想を絶やさない道なのです……」

    「いまはだれもが自分の個をできるかぎり他から切りはなし、自分自身の中で生の充実を味わおうとしています」

    自分の頭で考えることは、現代においては自立の必須条件とされていますが、一方で、個々の勝手な解釈が行き過ぎ、かえって、自分の目標や立ち位置を見失う原因にもなっています。孤独な個人主義とでも言うのでしょうか。全人類の導き手、あるいは社会の秩序となる「神なるもの」から切り離され、個々に好き勝手するようになった結果です。

    「今世紀においては万人が個別に分裂して ~ ただひたすら自分の金や、ようやく手に入れた自分の権利を失いはすまいかと、そればかりにおびえている」というくだりも、その通りですね。現代においては、家族やコミュニティの結びつきも薄れ、いっそうその傾向に拍車がかかっているのではないでしょうか。

    「しかしこの恐ろしい孤立状態にもかならずや終りが来て、お互いが離ればなれになってしまったのがどんなに不自然なことであるかを、みなが一時に会得するようになるでしょう」と訪問者は言います。その時こそ、人は、イエスの教えの有り難さに気付き、天上を仰ぎ見るわけですが、本当にその時が来るまでは、たとえ聖痴愚と嘲られようと、理念の旗を大事にかかげ、規範を示して、人間の魂を導かねばなりません。

    このあたりも、訪問者の口を通して、ドストエフスキーの願いが語られています。

    告解と改悛

    やがてゾシマ氏と訪問者の間には、尊敬の気持ちが芽生えますが、ある日、突然、訪問者が過去の殺人を告白します。

    十四年前、訪問者は美しい地主の未亡人に恋情を抱きますが、未亡人はすでに別の男性に心惹かれ、結婚の約束もしていました。訪問者は求婚を拒絶されたことを根に持ち、彼女の家に忍び込むと、彼女の心臓にナイフを突き刺し、殺害してしまいます。その後、無学な下男が容疑者として逮捕され、そのまま急病で死んでしまいます。訪問者の犯罪は誰に知れることなく、やがて美しい令嬢と結ばれ、三人の子宝にも恵まれます。社会的にも高い評価を受け、順風満帆の人生でしたが、ゾシマ氏の噂を聞きつけると、罪を告白することを決意します。

    ゾシマ氏は大変驚きますが、彼の固い決意を知ると、「行って、みなに告白なさい。すべては過ぎ去り、真実だけが残るでしょう。お子さんたちも、大きくなれば、あなたのその一大決心がどれほどの大きな心から出たものであるか、きっと理解してくれますよ」と励まし、訪問者はその通りに実行します。

    しかし、事件から十四年が過ぎていること、訪問者があまりに立派な人であることから、誰ひとり、彼の告白を信じず、警察や裁判所も彼の供述にまともに取り合わず、審理も中途半端に終わってしまいます。

    しかしながら、あまりの心の重圧ゆえか、訪問者は重い病気にかかり、一週間後に息を引き取ります。

    それでも罪の告白によって、魂の自由を得て、訪問者は満足のうちに死んでいく――という話です。

    もっとも、その過程には激しい葛藤もあり、秘密を知ったゾシマ氏を殺害するつもりであったことも告白します。

    ゾシマ氏にとっては、何とも不気味で、後味の悪い体験でしたが、これらの出来事が、「高徳の僧 ゾシマ長老」を作り上げていきます。

    罪の告白と改悛、愛と赦し。

    これだけが真に魂を自由にし、内なる天国を体験することができます。

    『罪と罰』のラスコーリニコフがそうであるように、どんな人も、己の罪を背負ったまま、魂の底から幸福を感じることはできないのです。

    【コラム】 罪の告白と改悛、愛と赦し ~神の視点を求めて

    ゾシマ長老の話には、作家ドストエフスキーの『神の視点』が反映されています。

    『カラマーゾフの兄弟』において、「何を一番書きたかったのか」という考察です。

    コラム『罪の告白と改悛、愛と赦し ~神の視点を求めて』に考察を掲載していますので、興味のある方はぜひ。

    あわせて読みたい
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    江川卓の注解

    《その日その時、その月その年》

    若き日のゾシマ氏は特に聖書に興味なかったが、《その日その時、その月その年》を意識して、ずっと持ち歩いていた。

    ヨハネ黙示録第九章十五節に出てくる言葉で、そこでは《その日その時、その月その年≫のために備えておかれた四人の天使が人間の三分の一を殺すために解き放たれることになっている。この話は悪魔的力の支配を寓するものと解されている。この言葉は三九九ページ上段にも出てくる。

    決闘はきびしく禁止されてこそいたが

    ゾシマ氏の決闘に関して。

    当時の刑法によると、介添人なしで行なわれた決闘は、一方が死亡した場合は六年八ヶ月ないし十年の刑、軽傷ですんだ場合には一年四ヶ月ないし二年の刑に処せられることになっていた。介添人を立てた正式の決闘では、これより刑期が短くなっている。

    人の子のしるし

    謎の訪問者との会話。「この恐ろしい孤立状態にもかならずや終りが来て、お互いが離ればなれになってしまったのがどんなに不自然なことであるかを、みなが一時に会得するようになる」、そのときこそは・・・と続く。

    マタイ福音書第二十四章三十節に、「天の雲に乗って」人の子、すなわちキリストが再来することが予言されている。

    彼を軍隊に入れる

    謎の訪問者の身代わりに逮捕された下男のこと。彼の女主人は、この下男を軍隊に入れる心づもりでいた。

    農奴制時代のロシアには、地主に一定数の兵卒を割り当てる制度があり、ここに語られているようなケースも頻発していた。

    旧約聖書の創世記第四十九章七節に出てくる言葉で、ヤコブがその十一人の子に向かって、それぞれを特徴づけ、ヨセフを相続者として祝福するくだりに出てくる。この言葉は「怒りにまかせて人を殺す」シメオンとレビの兄弟について言われたもの。

    原卓也訳『天国は わたしたち一人ひとりの中に秘められている』

    原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)では、次のような訳文になっています。

    天国は わたしたち一人ひとりの中に秘められているのですからね。現にそれはいまわたしの中にもかくされていて、もしわたしがその気になれば、あすにも実際にそれがわたしに訪れて、もう生涯消えることはないはずです。

    ≪中略≫

    世界を新しく改造するためには、人間自身が心理的に方向転換しなければならないんです。自分がだれに対しても兄弟のようにならないかぎりは、兄弟愛の時代はやって来ません。人間はどんな科学、どんな利益をもってしても、自分たちの財産や権利をなんのわだかまりもなく分け合うことはできないのです。だれもが自分の分け前は少ないと思い、たえず不平をこぼし、他をうらやみ、お互い殺し合うことになるのです。それがいつ実現するのかと、あなたはおたずねですね。実現することは間違いありませんが、その前にまず人間の孤立の時代が終わらなければなりませんね。

    翻訳全般に言えることですが、原先生の方がマイルドな訳文になっています。江川訳のゾシマ長老は「高徳の僧」ですが、原先生のゾシマ長老は「叡知のあるおじいさん」のイメージ。

    ドストエフスキーの時代から、「天国=幸福は各自の心の中にある」と説いているのが興味深い――というより、お釈迦さまの時代から同じことが言われているのですが(^_^;

    現にいたるところに支配しているような孤立ですよ。今世紀になって、それはとりわけひどくなりましたが、それはまだ終わっていないし、終わるべき時期も来ていないのです。

    なぜなら、いまはだれもが自分の個をできるかぎり他から切り離し、自分自身の中で生の充実を味わおうとしています。けれど彼らの懸命の努力にもかかわらず、その結果は生の充実どころか、まったくの自殺行為になっています。なぜなら彼らは自身の存在を完全に位置づける代わりに、完全な孤立に陥っているからです。

    なぜなら今世紀においては万人が個別に分裂して、だれもが自分の穴に閉じこもろうとし、だれもが他人から遠ざかって、自分の身も、自分の所有物も他から隠そうとし、あげくは自分が他の人々に背を向けられ、逆に自分も他の人々に背を向ける結果になっているからです。

    一人でこっそり富を蓄えては、自分はもうこんなに強くなった、こんなに安定したと考えていますが、しかし、富を蓄えれば蓄えるほど自殺的な無力さにはまり込んでいることには、愚かにも気がつかないでいるのです。というのは、自分一人の力だけを恃むことに慣れ、子としての自分を全体から切り離し、他人の助力も、世の中の人間も、人類全体も信じないように自分の魂をならして、ただひたすら自分の金や、ようやく手に入れた自分の権利を失いはすまいかと、そればかりにおびえているからです

    今日いたるところで人間の知性は、個の真の安定は、個々人の孤立した努力にあるのではなく、人間全体の一体性の中にこそあるということを、一笑に付して顧みようともしなくなっています。しかしこの恐ろしい孤立状態にもかならず終わりがやって来て、お互いが離ればなれになってしまったのがどんなに不自然なことであるかを、みなが一時に会得するようになるでしょう。

    時代の風潮そのものがそういうふうになって、よくもあれほど長いこと闇の中に座して、光明を見ないでいられたものだと、われながら驚く日が来るに相違ありません。そのときこそ人の子のしるしが天上に翻るのです……しかしそのときまではやはり理想の旗を大事にかかげていかなければならないし、ときにはたった一人であっても、完全と範を示して、人間の魂を孤立状態から同胞愛的な結合の偉業へと導かねばならないのです。たとえそれが聖痴愚のふるまいと見られようとも、これこそ偉大な思想を絶やさない道なのです……」

    原訳でも、このあたりにドストエフスキーの願いと見識が集約されていますね。20世紀後半から21世紀にかけての個人主義と快楽主義がいかに精神の核を歪め、社会を瓦解させたか。人はいろんな楽しみを手に入れたけど、一方で、人間関係は希薄になり、おかしな思想に取り憑かれて、ますます分断に向かっています。この頃から予兆はあって、止める術もなく、ここまで来てしまったのだと。

    「個の真の安定は、個々人の孤立した努力にあるのではなく、人間全体の一体性の中にこそあるということを、一笑に付して顧みようともしなくなっています」もその通りですね。

    個の自立を謳う人でさえ、自己の存在価値を周囲の評価に依存しており、誰にも見向きされなかったら、一人で立つこともできません。

    個は全体の中にあり、全体は個から構成されている。

    どちらが大事という話ではなく、要はバランスの問題です。

    その視点をなくして、自己主張しても、周りに聞き入れられないばかりか、コミュニティの基盤も壊してしまうのではないでしょうか。

    今の時代、大事なことを真面目に語っても、一笑に付されるだけで、心が折れることもあるかもしれません。

    しかし、偉大な思想を絶やさない為にも、理想と信念を持ち続け、未来の人類に訴えていく必要性をゾシマ長老=ドストエフスキーは説いています。たとえ、聖痴愚と馬鹿にされても、です。

    人間全体の一体性とは、「わたしはこう思う」が前面に出るのではなく、他との関係性の中に、自身の存在価値や立ち位置を見出すものです。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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