江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【44】 『ガラリヤのカナ』とアリョーシャの覚醒 ~大人になるということ

    大地に祈るアリョーシャ
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    ゾシマ長老の遺体の『腐臭』とフェラポント神父の揶揄に衝撃を受けたアリョーシャは、自暴自棄的にラキーチンの誘いに乗り、淫婦グルーシェンカの住まいに行きます。

    グルーシェンカはアリョーシャの膝に乗り、彼を誘惑しようとしますが、ゾシマ長老の死を知ると謙虚な気持ちで祈りを捧げ、アリョーシャもまた彼女の気づかいに心を動かされます。

    『第Ⅶ編 アリョーシャ / 第4章 ガラリヤのカナ』では、グルーシェンカとの交流によって心を洗われたアリョーシャが再び信仰に目覚める過程を描いています。

    動画で確認

    前半で最も感動的な「大地に接吻」をロシアのブラッド・ピットが熱演。
    でも、周りの風景は1967年版映画の方がいいですね。

    https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=12936

    1967年版の映画では、ゾシマ長老の死に衝撃を受けたアリョーシャが森に駆け出す場面が描かれています。
    グルーシェンカの住まいを訪れ、その後は大幅にスキップして、金策に行き詰まったドミートリイが狂ったような表情でフェーニャ(グルーシェンカの小間使い)の元に駆け込んでくる場面になります。
    「大地に接吻」が省略されているのは残念ですが、時間的に余裕がなかったのでしょう。
    アリョーシャが大地に身を投げる演出で、両方を兼ねている印象です。

    目次 🏃‍♂️
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    アリョーシャの覚醒

    グルーシェンカとの触れ合いを通して、心が慰められたアリョーシャは、僧院を飛び出した時とは違う気持ちで庵室に戻ります。

    それまではイエス・キリストの復活のような『奇跡』を待ち望み、期待が裏切られると、子供のように失望して、酒を飲み、肉を喰らい、淫婦グルーシェンカの住まいに出かけたりしましたが、大事なのは死者の蘇りみたいな奇跡的事象ではなく、他人に対する何気ない親切、思いやり、互いに慰め、励ます心の交流にこそあると気付いたからでしょう。

    アリョーシャは扉から右に折れて、部屋の片隅へ行き、そこにひざまずいて祈祷をはじめた。彼の魂はさまざまな思いにあふれんばかりだったが、何か茫漠としていて、これといって強い感覚が表立ってくることはなく、むしろいろいろな思いがゆっくりとなだらかに回転しながら、お互い消し合っているようであった。それでも、心は何か甘美な感触にひたっていて、奇妙なことに、アリョーシャはそれを不思議とも思わないのだった。

    彼はふたたびあの柩を、彼にとってかけがえのない死者を封じ込めたあの柩を眼前にしていたが、けさ方のように、泣きたいほどの、胸をしぼられるような、やるせない哀傷が魂にうずくことはなかった。いま入って来るなり、彼は聖物を前にしたときのように、梱の前に突っ伏したのだが、しかし彼の理性と心情を照らし出したのは喜び、まぎれい喜びの情にちがいなかった。庵室の窓は一つが開け放たれて、さわやかなひんやりとした空気が室内にこめていた。

    アイドルに狂った少年少女も、失言やグループ脱退、結婚など、思いがけない現実に直面したら「ファンへの裏切り」と感じ、「もう二度と応援しない!」と心をこじらせることがありますね。

    アイドルに対して、あまりに現実離れした期待を抱くがために、期待通りにならなかった時の怒りや失望もひとしおです。

    アリョーシャも、ゾシマ長老に対する気持ちがそれでした。

    リアリストは自分が信じたいものを信じる ~アリョーシャの信仰とゾシマ長老』にも描写されているように、アリョーシャの信仰は、一種の憧れであり、親に甘えるような気持ちです。他の熱狂的な信者がキリストや教会を「奇跡」と信じて崇めるのとは異なり、たまたまそれが自分の感性にフィットしたから神の道に入っただけで、分かりやすく言えば、高校生が将来の進路に「○○大学 人間コミュニケーション学科」を選択するのと似たようなものです。また幸いに、そこの教授は地元でも信望の篤い人で、父親のように情け深い老翁であったことから、(子供の頃に得られなかった)父の情愛を求めるような気持ちで、ゾシマ長老に付き従ったまでです。その点、イワンの方が、もっと純粋に人間と神と信仰の在り方を真剣に考えていたのではないでしょうか。

    それだけに、自分の信じた奇跡が起こらず、腐臭という現実に直面したばかりか、フェポラント神父のような禍々しい人物に嘲弄された事で、心の偶像がガラガラと音を立てて崩れ落ちました。

    グルーシェンカの所に行ったのも、こじらせた10代がヤケクソで酒をがぶ飲みしたり、夜中にバイクで爆走するのと似たような気持ちかと思います。

    しかし、グルーシェンカの誠実な人柄を知り、淫婦と蔑まれながらも、ひたむきに生きる女性の心の傷を癒やしたことで、アリョーシャの中に真実の愛が芽生えます。憧れや理想とは異なる、現実的な人間同士の触れ合い――ゾシマ長老が常々、説いてきた『行動の愛』です。「愛とは~、人生とは~」と演説することではなく、目の前の困った人に「一本のねぎ」を差し出し、愛と希望で心を照らすことです。

    アリョーシャは、自分のささやかな親切(一本のねぎ)が深く傷ついた女性の心を和ませたことによって、初めて、無条件の愛の尊さを知りました。

    同時に、自分に対する信頼を取り戻し、これこそ世の中で必要とされること、そして、ゾシマ長老が自分に期待していたことと悟ります。

    ゆえに、「腐臭」を恥とも害悪とも思わず、それはそれとして受け止めることができたわけですね。

    このパートでは、「さわやかなひんやりとした空気が室内にこめていた」のように状況が描かれていますが、これは現実の風景ではなく、アリョーシャの心象と解釈するのが正解です。

    つい先ほどまで、あれほど醜悪な、不名誉なことに思われた腐臭についての思いも、いまはもう先ほどのような悲しみも、先ほどのようないきどおろしさも呼びさましはしなかった。彼は小声で祈りはじめたが、ほどなくその祈りがほとんど機械的なものであることに気づいた。きれぎれの思いが彼の魂をよぎって行き、一瞬、星のようにぱっと明るく輝いては、すぐまた消えて、別の思いにとってかわられるのだが、それでも魂の底には何かずっしりと手ごたえのある、渇きをいやしてくれるようなものが根を張っていて、そのことが自分でも意識されるのだった。ときおり、彼はひたむきに祈りはじめた。ただもう感謝し、愛したくてならなかったのである……

    『ガラリヤのカナ』(カナの婚礼)

    ヨハネの福音書より

    この続きで描かれるのが『ガラリヤのカナ』。

    一般には、「カナの婚礼(Wedding at Cana)」で知られる新約聖書のエピソードです。

    ヨハネによる福音書 第2章

    三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。

    ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。

    イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。

    母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。

    そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。

    イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。

    そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。

    料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、

    「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。

    イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。

    フリー聖書 Your Version

    ヨハネの福音書では、イエスの生涯ではなく、教えの過程が詳細に描かれています。

    有名な「初めに御言葉があった。御言葉は神とともにいた。御言葉は神であった」から始まり、病人を治したり、罪深い女を救ったりする、奇跡のエピソードが綴られています。

    「カナの婚礼」は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスが、シモン、ピリポ、アンデレ、ナタナエルといった最初の弟子と出会い、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」と告げた続きで、ガラリヤでの婚礼に招かれた時のエピソードです。

    花嫁の母は、祝宴で客人に振る舞う「ぶどう酒」がなくなったとイエスに訴えます。すると、イエスは、かめに水をいっぱいに入れるよう指示し、彼らがその通りにすると、かめの水は美味しいぶどう酒に変わっていました――。

    普通に考えれば、「そんなアホな」という案件ですが、これには象徴的な意味があると下記で解説されています。

    イエスは、当時差別されていた外国人、障害をもつ人、重い病にある人と、積極的に関わりを持ちました。そして、社会に張り巡らされた人と人とを隔てる壁をなくして、共に生きる神の世界をこの地上に実現されようとしていました。

    そんなイエスにとって、人と人との関係を分断する清めの水などは無用でありました。そんな清めの水などいらないのだ、人間を汚れた者と清い者とに分けること自体がそもそも間違いなのだ、ということです。

    さて、宴の席でワインがなくなったことを知ったイエスは、この清めの水を飲んでしまおうと提案しました。それはすなわち、人々を分断する水を飲んでしまうということによって、そこでの人々の交わりを真に豊かなものにする、ということです。これこそが、水を極上のワインに変えたということの本質的な意味であるように思います。 

    イエスはこのようにして、すべての人々が隔てなく一緒に生きることを求め、人々の暮らしや生き方を一変されていくのであり、その最初の事件がカナでの出来事でありました。

    大学礼拝「カナの婚礼」2021/9/16  孫や柳城女子大学 キリスト教センター

    下記の記事も参考になります。

    当時、婚礼の披露宴は一週間続いた。この披露宴の最終的責任は花婿である。披露宴の途中、料理や葡萄酒が尽きてしまうというのは、当時においてはたいへんな恥だった。もし尽きてしまったら、花婿は花嫁側の親類縁者から非難を浴びることは必定。ところが、ここでそれが現実的になりそうな雰囲気だった。 ≪中略≫

    キリストはここで不思議なことを述べている。「わたしの時はまだ来ていません」。「わたしの時」とはキリストの生涯にとって重要な時を暗示している。「わたしの時」とは、キリストがまことの人となって地上に来られた目的を遂行する時、「十字架の時」と言ってよい。それはまた、十字架、復活、昇天を通して栄光を受けられる時であった。 ≪中略≫

    今、キリストは公生涯が始まって間もない時期に、ぶどう酒、婚礼というキーワドの場面におられる。キリストがこれから行わんとしていた奇跡はメシヤ時代の到来を告げるのにふさわしいものであった。これから行おうとしていたしるしは、わたしが皆が待ち望んでいたメシヤである、花婿である、ということを教えるにふさわしいものであった。メシヤ時代の幕開けにふさわしい奇跡だった。

    「カナの婚礼」 ヨハネ2章1~11節 / 横手聖書やすらぎ教会

    『カナの婚礼』は、イエスの最初の奇跡のエピソードであり、アリョーシャにとっては、グルーシェンカに差し出した「一本のねぎ」がそれに相当します。

    それまでゾシマ長老の元、あるいは父や兄たちに庇護されて、少年ボランティア的な存在だったのが、自らの意志で優しさを示し、またその優しさが一人の哀れな女性を救った瞬間です。

    将来、アリョーシャが、イエス・キリストのような影響力をもった指導者になることを思えば、いつでもこの瞬間が原点であり、ドストエフスキーもそこに『カナの婚礼』=最初の奇跡を重ね見たことは想像に難くありません。

    その点、訳者の江川卓はどのように見ているのでしょうか。

    『実現しなかった奇跡』 江川卓の解説より

    江川氏の著書『謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書) 』の「Ⅶ 実現しなかった奇跡」では、次のように解説しています。

    現実の不条理からキリスト教に失望し、「神を認めない」という考えに至ったイワンに対し、アリョーシャはどうなのか。

    ところでアリョーシャはどうしたのだろうか。奇跡が実現しなかった後、彼もまた、大審問官が予言したように、神への信仰をも失ってしまったのだろうか。

    どうもそうではないらしい。長老の遺体が発した悪臭はたしかに彼の心に深刻な苦悩をもたらした。ラキーチンに誘われるまま、グルーシェンカのもとを訪れもした。しかし、そのグルーシェンカのもとで彼は「姉さん」を見出しただけでなく、彼女から「一本のねぎ」というすばらし奇い寓話を引き出すことができた。この寓話はドストエフスキー自身の言葉によれば、彼自身が「一農婦の口から聞き書きで記録したもので、おそらく、最初の聞き書きであろう、少くとも私はこれまで一度も耳にしたことがない」という。とすれば、これはドストエフスキーが自分で民規衆のただなかから掘り出してきた「宝物」であり、それなりの自負を持っていたものだと思われる。事実、この寓話はロシアの民衆の哲学的、倫理的世界観を体現した傑作であり、それを語るグルーシェンカその人の人格をも高める働きをしているものだと思われる。

    だれもが気づくように、この「一本のねぎ」の寓話は芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』と筋立てをまったく同じくしている。芥川が『カラマーゾフの兄弟』を読んでそれに影響を受けたのかどうかは、早急に結論づけることはできないが、少くともこの二つの間に密接な関連があることは否定できない。いずれにせよ「一本のねぎ」の寓話は、おおげさに言えば、世界的な妥当性をもっているわけであり、アリョーシャがこの話に強い感動を覚えたとしても、すこしも不思議ではない。

    「この人の魂にはすばらしい宝が隠されているかもしれない」グルーシェンカの話を聞いたあと、アリョーシャが感動に息をつまらせんばかりになってこうつぶやくのは、けっして偶然ではない。そのすこし前には、「あんたがいまぼくの魂を立ち直らせてくれたんです」とまで言い切ってる。アリョーシャがグルーシェンカを訪れたのは、彼女のうちに「邪悪な魂」を見出すと思ってだった。彼自身、「邪悪な気持」でいたからである。しかし、グルーシェンカと話すうちに、この「邪悪さ」は二人の心から消え去ってしまう。そして二人の関係は、キリストとマグダラのマリヤの関係を思わせるものになる。

    おそらく、そのことを踏まえて、ラキーチンはアリョーシャに嫌味を言うのだろう。

    「つまり、堕罪女を回心させたってわけかい? 淫売を真理の道へ向けたってわけか?七匹の悪鬼を追い出したつもりかい、ええ? 待望のわれらが奇跡、ここに実現せりか!」

    「七匹の悪鬼を追い出した」とは、ルカ福音書八・二に出てくるマグダラのマリヤを指すものである。アリョーシャは僧院を去って「俗界」に出るに先立って、すでにイエスの行なった「奇跡」を自ら実現したのである。(近年では、ルカ福音書に描かれる「罪深い女」はマグダラのマリアとは別人いう見解に変わっています)

    このことは、その後のアリョーシャの「俗界」での活動を考えるうえで、きわめて重要な意味をもつことである。彼は人間のうちに「宝物-愛することのできる魂」を見つけることができた。ゾシマ長老によれば、「愛することができないという苦悩」とは「地獄」の別名である。ここでアリョーシャは、これから彼が出て行こうとしている「俗界」がけっして「地獄」ではないことを確信できたのだった。となれば、彼の信条である「行動の愛」がなんの反響をも生まずに終るということは到底考えられない。

    たとえアリョーシャが、イワンの言うように、「神の世界」を認めないとしても、このことに変りはないだろう。ドストエフスキーは抽象的な神の存在よりも、人間と人間との具体的な愛のかたちを尊重していたということになるだろうか。 ≪中略≫

    実現しなかった奇跡に裏切られたアリョーシャは、一本のねぎを恵むことによって、自ら奇跡を創り出し、ゾシマ長老との奇跡の再会を果すことができた。もはや彼は、奇跡と信仰の問題に悩むことなく、自身の行動によって新たな奇跡を創り出していくことだろう。

    こちらの記事も分かりやすいです。
    実際の分量に喩えて、イエスの奇跡を解説しています。

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    The Barber Institute of Fine Arts - Bartolomé Esteban Murillo - The Marriage Feast at Cana
    『カナの婚礼』 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

    夢から現実へ ~大人になるということ

    信仰と新たな酒

    庵室に戻ったアリョーシャは、パイーシイ神父の朗読を聞きながら、うとうとし始めます。

    『カナの婚礼』に差しかかると、「ここはぼくの好きなところだ。ガリラヤのカナ、最初の奇跡だ……キリストは人々の悲しみをではなく、喜びを訪れて、最初の奇跡をあらわされたんだ、人々の喜びに力を貸されたのだ……「人間を愛する者は、その喜びをも愛す」これは亡くなられた長老がいつも言われていたことだった、あの方のいちばん大事な教えの一つだった」と信仰心を新たにします。

    《……イエス母に言う、女よ、我と汝(なんじ)になんの関わりあらん、わが時はいまだ至らず。母、下僕(しもべ)らに言う、彼が汝らに命ずるところを、つくりなせ》
    『つくりなせ……そうだ、喜びを、どこかの貧しい人たちの、とても貧しい人たちの喜びをつくるんだ……婚礼の宴に酒が足りなくなるくらいだから、むろん、貧しい人たちにきまっている……歴史家の書いたものには、ゲネサレ湖(ガラリヤ湖)の周辺一帯の地方には、当時ほとんど想像を絶するような貧しい住民が住みついていたということだ……

    これは将来、社会活動家へと歩みを進めるアリョーシャの決意の始まりですね。

    幻の続編「第二の小説」では、悩み、落ち込んだアリョーシャが、いつでもこの原点に回帰する様が瞼に浮かびます。

    さらには、まどろむアリョーシャの眼前にゾシマ長老が現れ、「新しい酒を汲もう、新しい、大いなる喜びの酒を汲もう」と新たな人生に誘います。そして、今では、イエス・キリストと共にあり、「わしらと楽しんでおられる」とアリョーシャを慰め、励まします。ゾシマ長老の死によって、何もかも尽きたように見えても、新たな酒は次から次に湧いてくる、それこそ信仰の奇跡です。

    それを悟ったアリョーシャは、庵室から出ると、歓喜のままに野原を歩き、神秘の星の下で大地を抱擁します。

    なんのために大地を抱擁したのか、彼は知らなかった。どうして残る隈もないまで大地を接吻したい抑えようもない欲求にかられたのか、はっきりと理解してはいなかった。しかし彼は泣きながら、声をあげて泣きながら、おのれの涙で大地をうるおしながら、大地を接吻した。そして、狂ったように誓うのだった。大地を愛する、永遠に愛しつづけると。

    『おまえの喜びの涙で大地をうるおし、そのおまえの涙を愛するがよい……』この言葉が彼の胸にひびいた。

    何を彼は泣いたのだろう? おお、彼はおのれの歓喜に酔うあまり、底知れぬ天空から彼に光を投げかけるこれらの星のことをさえ泣いたのだった、そして《この狂乱を恥じることをしなかった》。あたかも数かぎりもないこれらの神の世界から伸びる糸が、一時に彼の魂に集中したかのように、彼の魂は、《他界との接触を感じて》おののき震えるのだった。彼は一切のことについてすべての人を赦し、さらに赦しを乞いたい気持にかられた、おお、それは自分への赦しではなく、万人のため、万物のため、一切のための赦しであった。

    『私のためには、他の人たちが赦しを乞うてくれるだろう』ふたたび声が胸にひびいた。

    けれどその間にも彼は、あの蒼穹のように揺らぐことのない確固たる何ものかが、彼の魂に入り込もうとするのを、刻一刻はっきりと、手で触れられるほどにまざまざと感じていた。なにかしら一つの理念のようなものが、彼の理性にしっかりと根づき、もはや生涯、いや、永遠に離れることはないようであった。

    彼が大地に身を投げたときは、まだ弱々しい少年にすぎなかったが、ふたたび立ちあがったとき、彼はすでに生涯を通じて変らぬ不屈の闘士となっていた。そしてこのことをまったく唐突に、自身のあの歓喜の瞬間に自覚し、感得したのである。アリョーシャはその後の生涯を通じて、この瞬間をけっして、けっして忘れることができなかった。『あのとき、だれかがぼくの魂を訪れたのだ』――彼は後になって、この自分の言葉に固い信念を抱きながら、よくこう言ったものである。

    三日の後、彼は僧院を出た。それは、『俗界で暮せ』と彼に命じた亡き長老の言葉にもかなうものであった。

    「彼が大地に身を投げたときは、まだ弱々しい少年にすぎなかったが、ふたたび立ちあがったとき、彼はすでに生涯を通じて変らぬ不屈の闘士となっていた」=「そして、少年は大人になる」みたいな描写がいいですね。

    ゾシマ長老の死 ~床(пол)と大地(земле)に関する考察 ~翻訳は分かりやすければそれでいいのかでも言及されていますが、ドストエフスキーの世界観と「大地」は深い繋がりがあります。一度でも北海道みたいな「地平線の見える大地」を体験すれば分かりますが、ドストエフスキーに限らず、果てしない大地に神と生命の源を見出すのも頷ける話で、大地が永遠に続くからこそ、人も自分がこの世に生まれて来た意味を実感することができるのではないでしょうか。

    完璧な人である神やイエスと異なり、我々、人間にとっては、大地こそ自らが生きる世界。たとえ汚れ、荒れ果てようと、そこ以外に生きる場所はないし、だからこそ、我々は、その場所を少しでも良くすべく、額に汗して耕さなければなりません。これぞ「最初の人」アダムに課せられた使命です。

    前作『罪と罰』における「ラスコーリニコフの大地の接吻」からの流れを考えると、ドストエフスキーはこの場面を一番描きたかったのではないかという気もします。

    叙情詩『大審問官』など創作して、観念の中で自滅するイワンとは対照的ですね。

    【コラム】 大人になるということ

    アリョーシャの『大地に接吻』の場面は、ヴィヴィアン・リー主演の映画『風と共に去りぬ』の第一部のエンディング、「もう二度と飢えに泣きません("I will never be hungry again)」を思わせます。

    「風と共に去りぬ」では、南北戦争によって何もかも失い、明日食べる物もなくなったスカーレットが、空腹のあまり、土の中から菜根を掘り出して、そのままかぶりつきますが、お腹に合わず、すべて吐き出してしまいます。絶望に打ちひしがれ、泣きじゃくるうちに、逞しいアイルランド移民の血筋が目を覚まし、荒廃した大地に逞しく立ちあがります。そして、タラの赤い土を握りしめ、「もう二度と飢えに泣きません」と神に誓います。

    南北戦争が始まるまで、スカーレットはただの甘やかされた少女でした。何でも知ったようなつもりでも、逞しい父と優しい母に庇護されて、我が侭いっぱいに暮らすお嬢さんに過ぎなかったのです。

    しかし、南北戦争で母が死に、父もすっかり老けこんで、半病人のようになってしまった今、スカーレットが一家の主として皆を支えるほかありません。

    その時、スカーレットの中に大人としての自覚が芽生え、本当の意味で、「女の人生」が始まります。

    本作のファンにおいては、エンディングの「Tomorrow is another day(明日に望みを託して)」よりも、こっちの方が好きという人も少なくありません。

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    アリョーシャもまた、ゾシマ長老の死に直面するまでは、ほんの子供でした。

    カラマーゾフ一家の中では、誰よりも賢く、しなやかな心の持主ですが、何だかんだで世間を知っている淫蕩父フョードルや二人の兄に比べたら、お花畑のお坊ちゃんで、本当の意味で、人生の苦難も、男女の機微も知りません。何が正しいかは識っているけども、どうすれば女性を喜ばせることができるのかは分からない、無知な少年です。

    しかし、グルーシェンカの「一本のねぎ」を通して、アリョーシャは家族愛や師弟愛とは異なる、人間愛を体験しました。

    それまで、弟(息子)として、あるいは弟子として、一方的に愛されるだけの子供だったのが、自ら与える悦びを知ったのです。

    その気持ちを端的に表したのが、「彼は一切のことについてすべての人を赦し、さらに赦しを乞いたい気持にかられた」でしょう。

    「赦す」は無条件の愛に基づく行為であり、真に成熟した人間でなければ出来ないからです。

    アリョーシャにとって、グルーシェンカは「兄が惚れた女性」であり、ちょっとばかりスリリングな関係ですが、アリョーシャの初めての愛の対象としては、なかなか気がきいているのではないでしょうか。

    アリョーシャの接吻は、信仰の目覚めだけでなく、愛されるだけの子供から、愛する側の大人へと、人間的成長を遂げる様子を描いています。

    「三日の後、彼は僧院を出た。それは、『俗界で暮せ』と彼に命じた亡き長老の言葉にもかなうものであった」の一文こそが、幻の続編に続く、真のエンディングではないでしょうか。

    江川卓の注解

    三日目にガラリヤのカナに婚礼ありて

    ヨハネの福音書の一節より。

    婚礼ありて以下ヨハネ福音書第二章が全文、教会スラヴ語訳で引用されている。この『ガリラヤのカナ」の章に、小羊と花嫁との婚礼の喜び、すなわち、キリストの教会の建立、さらにはキリストの再来のシンボルを読みとろうとする説もある。

    歴史家の書いたもの

    「イエスが始めた時、ゲネサレ湖(ガラリヤ湖)には想像を絶するような貧しい住民が住みついていた」より。

    ルナンの『イエスの生涯』を指すものと見られており、それにもイエスの布教地域の住民の貧しさが語られている。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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