カチェリーナとうわずりの愛
章の概要
アリョーシャは、ホフラコワ夫人の屋敷で、カチェリーナとイワンに出会います。二人は互いに愛し合っているにもかかわらず、カチェリーナはドミートリイとの婚約にこだわり、まるでドミートリイと結婚することが自分の義務であり、品位の証しであるかのように振る舞います。
自分自身を何よりも愛するカチェリーナの心底を見切ったイワンは、彼女に別れを告げ、モスクワに旅立つと伝えます。
それでもなお、カチェリーナは偽りの喜びを見せ、心底、イワンを失望させます。
『第Ⅳ編 うわずり / 第5章 客間でのうわずり』では、気位の高いカチェリーナの性格と、兄弟の運命を揺るがす恋の行方を描いています。
イワンとカチェリーナの出会い
ここでイワンとカチェリーナの出会いについて、おさらいしましょう。
イワンがカチェリーナに初めて出会ったのは、ドミートリイとの婚約がきっかけです。
本来、ドミートリイ自身がカチェリーナを訪ねるべきなのに、ドミートリイは事の経緯を手紙に書き綴り、イワンに持たせて、自分の代理としてカチェリーナに会いに行かせます。イワンはカチェリーナの高貴な美しさに一目惚れし、カチェリーナも、知的で、上品なイワンに心惹かれますが、すでに婚約が成立した以上、心を移すことはできません。
しかし、ドミートリイは、グルーシェンカに熱を上げ、グルーシェンカもまんざらでない様子です(ゆえに、カチェリーナは、グルーシェンカを淫売と罵倒する)
だったら、あっさりドミートリイと婚約解消して、お互いに、好きな者同士と一緒になればいいのに、カチェリーナにはそれが出来ないんですね。
ひとえに自分のプライドゆえです。
カチェリーナはドミートリイが自分より格下な女性に心を移したのが許せないし、一度ならず、二度までも、自分に恥をかかせたことを恨みに思っています(一度目の恥とは、カチェリーナの父の金銭トラブルを解決するために、身を捧げる覚悟で、ドミートリイの下宿に赴き、ドミートリイから5000ルーブリの無記名債権を受け取った)
ゆえに、この婚約を強行して、ドミートリイを縛り付けると同時に、世間に、自分がいかに寛容な女性であるかを示して、品位を保ちたいのです。
そうしたカチェリーナの自分本位な性根に、イワンは心底愛想を尽かし、別れを告げます。
そして、この出来事は、ドミートリイのフョードル殺しの裁判で、カチェリーナに不利な証言をさせるきっかけになり、にもかかわらず、ドミートリイが「寛大な心」でカチェリーナの愚かな振舞いを許すところに、本作の美しい心情があるんですね。
ドミートリイの「寛大な心」(名前の由来)と三角関係の経緯については、『【17】ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐるカチェリーナの愛憎とフョードルの金銭問題』にまとめていますので、ぜひご一読下さい。
動画で確認
TVドラマ版(2007年)より。
カチェリーナが金を工面する為に、ドミートリイの部屋を訪れます。
ドミートリイはカチェリーナの美しさに心を打たれて、無条件で5000ルーブリの無記名債権を差し出す。
これに感激したカチェリーナがドミートリイに愛を告白し、婚約の運びになります。
婚約の段取りをするにあたり、ドミートリイは、自分の代わりにイワンを差し向け、これがカチェリーナとイワンの出会いになる。
お互いに一目惚れ。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=927
お互い惹かれあっているにもかかわらず、カチェリーナはドミートリイと婚約解消はしないと言い張り、イワンはそんな彼女に心底愛想が尽きて別れを切り出す。
それでもポーズを崩さないカチェリーナ。これはきつい。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=6404
それぞれの意地とうわずり
第Ⅳ編のタイトルは『うわずり』です。原卓也訳(新潮文庫)では、『病的な興奮』と翻訳されています。
江川卓氏の注解によると、うわずりとは、度を過ぎた緊張や努力によって健康、精神などを傷つける」の意があり、「大きな声を出しすぎて声がうわずる」ようなときにも使われる。」とのこと。本来は翻訳不能な単語のようです。
そして、第Ⅳ編には、二種類の「うわずり」が登場します。一つ目は、カチェリーナのうわずり。二つ目は、ドミートリイに痛めつけられた、髭の二等大尉スネギリョフ一家のうわずりです。どちらも、無関係に見えますが、スネギリョフ一家の不幸はドミートリイに端を発しており(元はといえば、スネギリョフを使ってドミートリイを陥れようとしたフョードルが悪いのだが)、カチェリーナが援助を申し出ることで、アリョーシャとの結びつきができます。
カチェリーナの場合、単なる痴話喧嘩にも見えますが、彼女の心のもつれがドミートリイの破滅を引き起こすので、決して無視できません。
男女の機微に疎いアリョーシャは、一体、カチェリーナ、ドミートリイ、イワンの三人に何が起きているのか理解できませんが、ホフラコワ夫人が≪うわずりだ≫と口にしたことで、事の本質に気がつきます。
ついさっきホフラコワ夫人が口にした《うわずり》という一語に、彼は思わずぎくりとさせられたのだった。 ≪中略≫
そこへまた突然ホフラコワ夫人の口から、カチェリーナはイワンを愛しているのだが、自分からわざと、ある種の演技で、《うわずり》で、感謝の気持からなどとこじつけて自分をあざむき、ドミートリイに対する見せかけの愛で自分を苦しめているのだと、正面から強く言われてみて、アリョーシャははげしい衝撃を受けたのだった。
『いや、ひょっとしたら、ほんとうに真実のすべてはこの言葉の中にあるのかもしれないぞ!』
しかし、もしそうだとしたら、兄イワンの立場はどうなるのだろう? アリョーシャはいわば本能のようなもので、カチェリーナのような性格の女性はいつでもだれかを支配していなければ気のすまないタイプだが、彼女に支配できるのはドミートリイのような男だけで、相手がイワンのような男ではどうにもらないことを感じていた。
なぜと言って、ドミートリイなればこそ(たとえ長年月がかかろうと)、ついには彼女におとなしく屈伏することもありうるし、それが《自身の幸福にもなる》(それこそアリョーシャがむしろ望むところだった)わけだが、これがイワンではそうはいかない、
イワンは彼女に屈伏できないばかりでなく、たとえ屈伏したとしても、それが彼に幸福をもたらすことはないからである。
「カチェリーナが支配できるのはドミートリイのような男だけ」というのは、ドミートリイは本質的に寛容で、女性に涙ながらに頼られたら、イヤと言えないタイプだからです。愛があろうが、なかろうが、カチェリーナのような女性に「こうしてちょうだい」とお願いされた、男のメンツもあって、それを呑んでしまう。心が弱いというよりは、任侠家です。
その点、イワンは、冷徹です。決して薄情なではないですが、相手が女性だろうと、肉親だろうと、「これまで」と見切ったら、くるりと背を向ける潔癖さがあります。
ゆえに、ドミートリイはどうにでも誤魔化しがきくけど、イワンにその手は通じないので、カチェリーナが完全に折れない限り、幸福な結末はない、ということです。
カチェリーナの言い分 ~自分の貞節をドミートリイに見てもらいたい
その点、カチェリーナ自身はどのように思っているのでしょう。
「今度の問題ではね、アレクセイさん、今度の問題でいまいちばん大事なのは――名誉と義務なんです、それにもう一つ、よくはわかりませんけれど、何かもっと高いもの、ことによると義務よりも高い何かなんです。≪中略≫
あの人がもしあの……淫売(グルーシェンカ)と結婚するとしても」彼女は厳粛な調子になった。
「わたしが断じて、断じて赦すことのできないあの女と結婚するとしても、わたしはやはりあの人を見捨てないんです! いまこの瞬間から、わたしはけっして、けっしてあの人を見捨てません!」
彼女は何か力弱い、無理にしぼり出したような感激が何かうわずってしまったような調子でこう言い切った。
「これは何もわたしがあの人を追いまわしたり、たえずあの人の目の前にちらついて苦しめたりするというわけではありません――いいえ、ちがいます、わたしは、どこでもいい、ほかの町へ行ってしまいます、けれど一生涯、たゆみなくあの人を見守っていくつもりなんです。それで、もしあの女といっしょになって、あの人が不幸になるようでしたら、いえ、すぐにもそうなるのが目に見えていますけれど、わたしのところへ帰って来てもらいたいんです。あの人はそこに心の友を、妹を見出すにちがいありません……もちろん、妹以上のものではなくて、それは永久にそうなのですけれど、あの人も最後には、この妹がほんとうの妹であることを、あの人を愛し、あの人のために一生涯を犠牲にした妹であることを得心してくれることでしょう。わたしはきっとそうして見せます、どんなことをしても、あの人が最後にはわたしという人間をわかってくれて、なにも恥じることなく、すべてをわたしに打ち明けてくれるようにしてみせます!」
彼女はほとんど我を忘れたようになって叫んだ。
「わたしはあの人の神になって、あの人にお祈りをさせるんです、――わたしを裏切った罰として、きのうわたしにあんな思いをさせた代償として、せめてこれくらいの義務はあの人も負ってくれていいはずです。あの人は不実な真似をしてわたしを裏切ったけれど、わたしのほうは生涯あの人に貞節をつくし、一度かわした約束をいつまでも守りつづけるのだということを、一生涯あの人に見ていてもらいたいんです。わたしは……いえ、わたしはただもうあの人の幸福の手段に(というより、どう言えばいいのかしら)、あの人の幸福の道具に、機械になってしまうんです、そしてわたしが生涯ずっと、生涯ずっとそうありつづけることを、あの人に見てもらうんです、一生涯見ていてもらうんです! わたしの決心というのはこれです! イワンさんはこの決心に全面的に賛成してくださいました」
カチェリーナは、ドミートリイとの結婚は「義務と名誉」と言い切り、「貞節をつくし、一度かわした約束をいつまでも守りつづけるのを、ドミミートリイに見てもらいたいからです」と訴えます。しかし、それは愛情ではないですね。ドミートリイも、そんなことを、微塵も望んでいません。いわば、カチェリーナが勝手に幸せを定義し、その型に皆をはめようとしているわけです。
イワンの言い分 ~
そんなカチェリーナのことを、イワンはどう思っているのでしょう。
「ほかの女性の場合なら、この瞬間はたんにきのうの印象というだけで、ほんの束の間のものでしかないでしょうが、カチェリーナさんのような性格の方だと、この瞬間が一生涯持続することになるんです。ほかの人にとってはただの口約束でしかないものが、この人にとっては永遠の義務になる、なるほど、つらく陰鬱なものかもしれないが、たゆみなく持続する義務になるんです。そしてこの人は、義務を果したというこの気持を心の糧にして生きていくんです!」
どんな女性も、一時の感傷で、「一生、この人に付いて行く!」と考えたりしますが、すぐ我に返り、自分に正直に生きようとするものです。
ところが、カチェリーナの場合は、「自分の貞節を、一生ドミートリイさんに見てもらう」と決めたら、たとえそれが一時の思いつきであっても、それを神聖な義務のように自分に言い聞かせることができる、その結果、辛いする思いをすることになっても、それこそ真実の愛の証しと、またまた自分に言い聞かせ、いっそう偽りの誓いの中に自分を投じることになる――と言いたいわけですね。
結局、ここでも自分の面子、相手の気持ちなど何も考えていません。
普通の女性なら、婚約者が他の女性に心を移したことをきっかけに、「これが潮時」と見切りをつけて、自分が本当に愛する男と一緒になろうとするものですが。
アリョーシャの指摘とカチェリーナの偽りの愛
カチェリーナの自分本位な性格を知ったイワンは「あいにくですが、ぼくは、たぶん、あすにもモスクワに発(た)たなけならないんです、で、当分はお目にかかれません……残念なことに、この予定はもう変えられないのです……」と別れを切り出します。
一瞬、カチェリーナは胸を突かれたようになりますが、次の瞬間には、平静を装い、まるで何かうれしいことでもあったように、嬉々として答えます。
「いいえ、あなたとお別れするのが好都合だというわけじゃありませんのよ、もちろんそんなことはありませんわ」
まるで言い直しでもするように、彼女はふいに愛想よい社交的な微笑を浮かべて言った。
「あなたのようなお友だちが、そんなことをお考えになるはずがありませんわね。それどころか、わたし、いまあなたを失うことがたまらないほど不幸に思えますの(彼女は突然イワンのほうへはげしく身体を乗り出すと、彼の両手を取り、情熱をこめて握りしめた)。
でも、好都合だといいますのは、これであなたご自身から、モスクワで、叔母やアガーシャに、わたしのいまの恐ろしい身の上まで含めて、こちらの事情をすっかり伝えていただけると思うからですの。アガーシャには何も包みかくさずありのままを、叔母にはいくぶん加減して、そこのところは上手にやってくださいますわね。とてもわかっていただけないでしょうけど、わたし、きのうから今朝にかけて、あの二人にこの恐ろしい手紙をどんなふうに書いたものかと、それはそれは思い悩んでいましたのよ……だってこれは手紙ではどうやっても伝えられないことなんですもの……でも、あなたがあちらでじかに二人に会って、すっかり説明してくださるということなので、やっとわたしも楽な気持で書けそうですわ。
どう考えても、無理がありますね。
普通、好きな男性が自分から去って行くと知れば、「いやよ、いやよ」ですがりつきそうなものですが、ここでもカチェリーナは貴婦人を装い、叔母や姉のアガーシャがどうのこうのと、言い訳を重ねます。
アリョーシャも奇異に感じ、「兄がモスクワへ行くというのに、あなたは、うれしいなんて叫んでいらっしゃる、――あなたはわざとそう叫んだんですよ! ところが、すぐそのあとで、うれしいのはそのことじゃない、それどころか……心の友を失うのが残念でならないなんて、言いわけをはじめられる、――でも、それもわざとの演技なんです……劇場で喜劇を演じていらっしゃるようにね!……」と指摘します。
「劇場で? それ、どういうことですの?」カチェリーナは顔をぱっと赤らめ、眉を寄せて、いかにも意外そうに叫んだ。
「だって、心の友を失うのが残念だって、どれほど兄に強調されても、その口の下からあなたは、兄が行ってしまうのが好都合だと本人に面と向かってくり返しておいでなんですもの……」アリョーシャはなぜかもうすっかり息の切れたような声で言った。彼はテーブルの前に突っ立ったなり、坐ろうともしなかった。
「なんのことをおっしゃっているのか、わたしにはわかりませんわ……」
≪中略≫
「頭にひらめいたというのは、ことによると、あなたは兄のドミートリイを全然愛していらっしゃらないんじゃないか……はじめからそうだったんじゃないか、ということなんです……それにドミートリイのほうも、もしかしたら、やはりあなたを全然愛していないのかもしれません……そもそものはじめからそうで……ただ尊敬しているだけなんです……ほんとうのところ、どうしていまこんな思いきったことを言う気になったのか、ぼくにはわかりません、でも、だれかが真実を言わなけりゃいけないでしょうが……なぜって、ここではだれ一人真実を言おうとはしないんだから……」
「なんの真実ですの?」カチェリーナは声を高めたが、その声には何やらヒステリックなひびきが聞きとれた。
「いますぐここへドミートリイを呼んで来ることです――ぼくが探して来ますよ、――それで兄さんがここへ来たら、まずあなたの手を取って、それからイワン兄さんの手を取って、お二人の手を結び合わせるんです。なぜって、あなたがイワンを苦しめていらっしゃるのは、イワンを愛していらっしなぜ苦しめるかといえば……なぜ苦しめるかといえば、ドミートリイへのあなたの愛はうわずりでしかないからなんです……にせの愛だからです……ご自分にそう信じこませていらっしゃるだけだからです……」
アリョーシャは急に言葉を切って、黙りこんだ。
「あなたは……あなたは……あなたはただの聖痴愚の坊やだわ、それだけよ!」
もう顔を蒼白にし、怒りのために唇をゆがめて、だしぬけにカチェリーナが口を切った。
アリョーシャの言う通りですね。
カチェリーナは、意地と見栄から「愛している」と自分に言い聞かせているだけ、アリョーシャはそれを「病的な興奮」=うわずりと指摘します。
イワンの三行半
「そりゃ誤解だよ、アリョーシャ」
アリョーシャがこれまで一度も見たことのないような表情を浮かべて、イワンは言った。それは、青年らしい一途さと、抑えようもなく強い感情をあけすけに表わした表情であった。
「カチェリーナさんがぼくを愛したことなんか一度もないのさ! そのくせこの人は、ぼくがこの人を愛していることはずっと知っていた、ぼくは自分の愛についてこの人にひと言も言ったことはないけれど、――それでもこの人は承知していた、でも、ぼくを愛してはいなかったのさ。この人の心の友だったことも、ぼくはない、一日だってない。この誇り高い女性にはぼくの友情なんぞ必要じゃなかったのさ。
この人がぼくをそばに引きつけておいたのは、絶えまない復讐のためだったんだよ。この人はこの数年来、片時も忘れずにきたドミートリイからの屈辱、二人が初めて出会ったとき以来の屈辱を根にもって、それをぼくに、ぼくに向かって晴らそうとしていたのさ……なにしろドミートリイとの最初の出会いが、この人の心にはいまだに屈辱となってくすぶりつづけているんだからね。
この人の心というのはそういう出来なのさ! ぼくはいつだって、この人の兄貴に対するのろけ話の聞き役に終始していたよ。
ぼくはいまここを発って行きますけれどね、カチェリーナさん、あなたかほんとうに愛しているのは兄貴だけなんですよ。しかも、兄貴から受ける屈辱が大きければ大きいほどそうなんだ。つまり、それがあなたのうわずりなんですよ。
あなたが愛しているのは、ほかでもない、いまあるがままの兄貴、あなたに屈辱を強いる兄貴なんですね。もし兄貴が立ち直ったら、あなたはたちまち兄貴を見放して、愛想づかしをしてしまうでしょうよ。つまり、あなたは、ご自分の貞節の偉業にたえず見惚れ、兄貴の不実を責めていたいばっかりに、兄貴を必要としているんだ。
で、この一切のもとがあなたの誇り高さなんです。なるほど、ここには屈辱や卑下が多すぎるかもしれない、でもすべてのもとは誇り高さなんだ……
ぼくはあまりに若すぎて、あなたを強く愛しすぎた。こんなことをあなたに言うべきでないことはわかっていますよ、このまま黙ってあなたから去って行くほうが、よほどいさぎよいことだったでしょうね。そのほうがまだしもあなたを侮辱することにならなかった。でも、なんと言ってもぼくは遠くへ行ってしまって、二度とここへは来ないつもりだから。永久にそのつもりなんですよ……うわずりのお守りは真平です……
もっとも、ぼくはもうこれ以上はしゃべれないな、言うことはこれだけです……さようなら、カチェリーナ・イワーノヴナ、あなたはぼくに腹を立てるわけにはいきませんよ、なぜってぼくはあなたより百倍も重い罰を受けているんですからね。もう二度とあなたに会えないというだけでも、大きな罰を受けているんだから。さようなら。握手は辞退しますよ。あなたの苦しめ方があまりに意識的だったから、いまこの瞬間あなたを救す気にはなれないんです。いずれは赦すでしょうけれど、いまは握手は要りません。
Den Dank, Dane, begehr ich nicht
(夫人よ、われは感謝を求むるにあらず)」ゆがんだ笑いを浮かべて、彼はこうつけ加えたが、この言葉で彼は、彼もまたシラーを暗記するくらい読みふけることのできる人間であることを、はからずも証明してみせたのだった、それは以前だったら、アリョーシャにはとても信じられないことだったろう。
イワンはカチェリーナの心底を見切っています。
ドミートリイに屈辱を味あわせるために「婚約」を利用し、その目的を達成するためなら、真に愛するイワンの心をを踏みにじってもいい、なぜなら、自分のプライドを守る方が、愛よりも大事だからです。こうしたカチェリーナの一面は、「カチェリーナの自己愛とドミートリイの訣別 ~女の意地は悪魔より強い」でも、ドミートリイの口から語られます。
あなたが愛しているのは、ほかでもない、いまあるがままの兄貴、あなたに屈辱を強いる兄貴なんですね。もし兄貴が立ち直ったら、あなたはたちまち兄貴を見放して、愛想づかしをしてしまうでしょうよ。つまり、あなたは、ご自分の貞節の偉業にたえず見惚れ、兄貴の不実を責めていたいばっかりに、兄貴を必要としているんだ。
つまり、カチェリーナは、自分が聖女でいる為に、問題児のドミートリイが必要で、もしドミートリイが正気に戻り、立派な青年になったら、カチェリーナの存在意義も薄れ、いずれ愛想を尽かす、ということです。
このあたりの機微は、男女関係に疎い人には分かりにくいかもしれませんが、共依存的なものに似ています。
たとえば、ギャンブルにだらしない男とつき合っている女性の場合、「ギャンブル好きな彼」が好きなのではなく、「ギャンブル好きな彼に尽くしている自分」が好きで、それが自己の存在意義になっています。なので、彼が立ち直り、彼女の助けも必要としなくなったら、逆に、彼を憎むようになるのと同じです。
そしてまた、最後まで恰好をつけずにいられないのは、イワンも同様。
「シラーを暗記するくらい読みふけることのできる人間であることを、はからずも証明してみせた」という一文がそれを物語っていますね。
同じ男として、女好き、豪遊好きの、だらしないドミートリイより、知的で、教養もある自分が劣るとは思いたくありません。
壁ドンでもして、カチェリーナに決断を迫れば、もっと違った展開があったでしょうに、見栄っ張りはイワンもお互い様です。
かくして、二人の恋は、実に馬鹿馬鹿しい悲劇で終わってしまうのでした・・
スネギリョフ大尉への援助の申し出
ところが、カチェリーナは、なおも平静を装って、突然、スネギリョフ大尉への援助を申し出ます。
以前、スネギリョフ二等大尉(退役大尉)は、フョードルの代理人として、ドミートリイ名義の手形をグルーシェンカに届けたことがありました。手形を使って、ドミートリイを金銭的に破滅させ、牢獄に入れるのがフョードルの目的です。(それがドミートリイとグルーシェンカの縁を結ぶことになる)
それを知ったドミートリイは、スネギリョフの顎ひげを掴んで、往来に引きずりだし、ボコボコにします。
しかも、その様を、息子イリューシャと学校の仲間たちが見ていて、イリューシャの心を深く傷つけます。
イリューシャがカラマーゾフ一家を憎み、通りすがりのアリョーシャの指に噛みついた次第です。
(参考→ イリューシャと少年たち ~未来の12人の使徒)
動画で確認
ドミートリイがスネギリョフ二等大尉を往来に引きずりだす場面です。
原作では、カチェリーナの口から、次のように語られます。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=4994
カチェリーナはスネギリョフ一家の窮状を知り、「ドミートリイの婚約者として」、援助を申し出ます。
アリョーシャに、200ルーブリを手渡し、スネギリョフ一家に届けて欲しいと懇願します。
これをきっかけに、イリューシャと少年たちとの交流が始まります。
江川卓による注解
夫人よ、われは感謝を求むるにあらず
イワンがカチェリーナとの別れ際に口にするシラーの詩。