江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【38】ゾシマ長老の伝記とドストエフスキーの遺言 ~ヨブ記のエピソードより

    ゾシマ長老 カラマーゾフの兄弟
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    目次 🏃‍♂️

    ゾシマ長老の伝記とドストエフスキーの遺言

    章の概要

    死に瀕して、ゾシマ長老は自身の半生を語り、神父らに訓諭を与えます。

    『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第2章 神のもと永遠の生に就かれたる修道苦行司祭ゾシマ長老の一代記より、長老みずからの言葉をもとにアレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフこれを編む』の「ゾシマ長老の年若き兄」「ゾシマ長老の生涯における聖書の意義」では、夭逝した兄の思い出、聖書の学び、とりわけ『ヨブ記』に関する見解が綴られています。

    ↓ 死にそうなほど長いです。これだけは書かせろというドストエフスキーの怨念を感じます。

    ゾシマ長老の伝記的資料 章立て

    第2章 
    神のもと永遠の生に就かれたる修道苦行司祭ゾシマ長老の一代記より、
    長老みずからの言葉をもとに
    アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフこれを編む

    • ゾシマ長老の年若き兄
      → 傲慢だった兄マルケルが結核になり、悔い改める
    • ゾシマ長老の生涯における聖書の意義
      → 幼少時に親しんだ聖書の思い出。ロシアの司祭らへ。聖書の物語を民衆に語って聞かせよと訓諭
    • 俗界にありしゾシマ長老の青年時代の思い出。決闘
      → 青年期、失恋の憂さ晴らしで他人に絡み、決闘になるが、途中で改心
    • 謎めいた訪問者
      → 町の名士が長老の元を訪れ、過去に犯した殺人について告解する。長老は神の道を志す

    第3章 ゾシマ長老の談話と説教より

    • ロシアの修道僧とそのもちうべき意義について
      修道僧はどうあるべきかの訓諭
    • 主従について、主従は精神的に互いに兄弟となりうるか
      → 聖職者と民衆の関わりについて訓諭
    • 祈りと、愛と、他界との接触について
      → 若者や友人へのメッセージ。理想の生き方とは。
    • 人は同胞の裁き人となりうるか? 最後までの信仰について
      → 人を裁いてはならない
    • 地獄と地獄の火について、神秘論敵考察
      → 地獄とは何か。

    動画で確認

    映画版『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より、1分クリップ。

    人生は数多くの不幸をもたらすが、その不幸によって幸福になる ~一粒の麦、もし地に落ちて死なずば』からの続きで、ゾシマ長老の死を予感して泣き崩れるアリョーシャの姿と、優しく訓諭する長老の姿が描かれています。

    第二の関門

    難解な『大審問官』をクリアし、前章の『第Ⅴ編 ProとContra / 第7章 「賢い人とはちょっと話すだけで面白い」』にようやく辿り着いて、さあ、いよいよ本作の核心、フョードル殺しが始まるぞぉ~と思っていたら、突然、場面が切り替わり、ゾシマ長老の独白を延々と聞かされて、投げ出したくなる人も少なくないのではないでしょうか。(しかも話の半分は説教)

    しかも、ようやく切り抜けたと思ったら、今度は、腐臭騒ぎ、アリョーシャとグルーシェンカの「一本のねぎ」、ガラリヤのカナ、ドミートリイの金策、モークロエの食事処でのポーランド人とのやり取りなど、枝葉のようなエピソードが縦横に連なり、「一体、この小説は何なんだ!!」と涙目になる人もあるでしょう。

    ところで、カラマーゾフの父ちゃんは、いつ死ぬの~ マダァ-? (・∀・ )っ゙( U ) チンチン 

    みたいな

    しかし、ここで投げだしては非常に勿体ない。

    ゾシマ長老のありがたい訓諭もなかなか感動的なので、あらすじと名言を紹介します。

    ちなみに原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)では、『今は亡き司祭スヒマ僧 ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフ編纂』というタイトルです。スヒマ僧とは「一定の苦行的戒律を受けた最高位の修道僧」。
    どちらが原典に近いのかは分かりませんが、参考に。

    ゾシマ長老の年若き兄

    ゾシマ長老は、V町の貴族の父親の元に生まれ、父が二歳の時に亡くなってからは、八歳年上の兄マルケル、母、四人の召使いと暮らしていました。

    マルケルは、政治犯として流刑された智学者のもとに足繁く通い、神にも否定的な言動をとっていましたが、結核におかされ、死が近いことを悟ると、改悛し、母にも召使いにも優しくなって、世界への愛に満たされるようになります。

    兄の部屋の窓は庭に面していて、老木の茂る影ゆたかなわが家の園には、春ともなれば若芽が萌(も)え、早春の小鳥がやって来ては兄の窓に向かってさえずり歌うのだったが、兄はその小鳥たちに見とれながら、ふいに小鳥たちに赦しを乞うようになった。

    「神の小鳥よ、喜びの小鳥よ、どうかぼくを赦しておくれ、ぼくはおまえたちにも罪を犯しているのだから」こうなるともう、当時の私たちはだれ一人として理解できなかったが、兄はうれし泣きに泣いているのだった。「ああ、ぼくのまわりにはこんなにも神の栄光が満ちあふれていたのだ、小鳥たち、木木、草原、空――だのにぼく一人だけが汚辱の中に暮し、万物をけがし、美しさや栄光には気がつこうともしなかったのだ」――

    「それじゃあんまり一人に罪を負いすぎますよ」と母が泣く。

    「母さん、ぼくの喜びである母さん、ぼくはね、悲しいからじゃなくて、楽しいから泣いているんですよ、だってぼくは自分からすすんで万物に対して罪人でありたいんですもの、ただそこのところをよく説明できないんです、万物をどのように愛すればいいのか、わからないものですから。ぼくが万物に対して罪人であっても、その代り万物がぼくを赦してくれる、これが天国なんですよ。ぼくはいま天国にいるんじゃないでしょうか?」

    兄マルケルの言動は、医者に「精神錯乱」と言われるほど不可思議なものでしたが、ゾシマ長老の心に強い印象を残します。

    死を前にした人が、突然、生の有り難みに気付き、浮世離れした言動をとるようになるのは、よくあることです。

    普通の人でも、当たり前のことが、実は奇跡のような出来事であることに気付き(朝になると日が昇る、春になると花が咲く、、)、人や世界に対して敬虔な気持ちになるでしょう。

    兄マルケルも、死を実感して、初めて生の価値に気付いたのだと思います。

    ゾシマ長老の生涯においては、初めて敬虔する「改悛の情」ですね。

    改悛とは、こうも大きく人間を変えるのかと、心に深く刻まれたはずです。

    ゾシマ長老の生涯における聖書の意義

    次の項では、ゾシマ長老と聖書との出会いが語られます。

    本作に登場する『新旧約聖書から取った百四の聖なる物語』や『ヨブ記』は、ドストエフスキーの体験に基づく話であり、ゾシマ長老の回想は、ドストエフスキー自身の思いであり、解釈です。

    本作を脱稿して間もなく、ドストエフスキーも急逝したことを思うと、このパートが遺稿のようになっているのは一種の虫の知らせかもしれないですね。少なくとも、本作「第一の小説」を書き始めた時は、フョードル殺しから13年後のエピソード「第二の小説」も書く気満々でしたから。

    当時家には、『新旧約聖書から取った百四の聖なる物語*88』という美しい絵入りの本があって、私はこれではじめて読み書きを学んだのだった。いまもこの本は私の居間の棚に置かれ、私の終生の記念となっている。 ≪中略≫

    私は主の教会へ受難週間の月曜日の礼拝式に出かけた。それはよく晴れた日で、いまこうやって思い出しても、香炉から立ち昇る煙がゆらゆらと上方に流れて行くさまが目に浮かぶようである。その上方の円天井の細い小窓からは、神の日差しが教会の中にいる私たちにさんさんと降り注ぎ、香の煙は波のようにゆらめいて高みへ昇って行っては、まるでその光の中に溶けこむかのようであった。私は感動の眼差でそれを眺めていたが、そのとき、生れてはじめて、私は神の言葉の最初の種子を意識して魂の中に受け容れたのだった。

    一人の少年が大きな本をかかえて聖堂の中央へ進み出た。それは当時の私には、持って運ぶにもさぞ大変だろうと思われるほど大きな本だったが、少年はそれを経机の上に置いて、ページを開くと読みはじめた。と、そのとき突然、私ははじめて何かを会得した、生れてはじめて、神の教会で何が読まれるのかを理解したのである。ウズの

    聖書に限らず、「人生の一冊」との出会いは、誰の心の中にも神秘のように焼き付くものです。

    大型書店の書架で、なぜかその背表紙だけが異様に輝いて見えたり。

    図書館で、たまたま手に取ってみたら、まさにそこに探し求める一文が載っていたり。

    その本に出会った時の周りの状況――お店の雰囲気や前後の行動、その時自分が来ていた服装まで――鮮明に覚えていたりします。

    ドストエフスキーにとっては、聖書がそうだったのでしょう。

    決して大げさではなく、その瞬間を神聖なものとして一生持ち続ける気持ちは分かります。

    ヨブの受難と信仰

    また、この章では、ドストエフスキーに特に深い感銘を与えた旧約聖書の『ヨブ記』について言及されています。

    ヨブ記は、信心深いヨブが、「(神よ、)あの男をわたしにお渡しなさい。そうすればあなたの僕が不平を言い、あなたの名を呪うところをお目にかけましょう」という悪魔によって、次々に災難に遭い、ついには神に対して恨みがましい気持ちにもなりますが、信仰は「信じたから報われる」という取引ではなく、「神の成すことは人間には計り知れない」と悟ります。神はヨブの信仰の正しさを知り、ヨブはその後ますます豊かになって、天寿を全うします。

    ヨブ記の解釈も様々ですが、「信仰は取引ではない」という部分が一番大きいのではないでしょうか。

    「神を信じれて、教えに従えば、いいことがあるよ」というのは、報酬目当てに過ぎません。

    「わたしは神を信仰して、正しい行いをしている。だから、報われるはず」というのも、人間の傲慢です。

    雨の日も、風の日も、ひたすら神の教えに従い、裁きも、報いも、神にまかせることが、真の信仰です。

    ヨブもそれに気付いて、信仰を新たにしたことから、神も喜ばれ、いっそう祝福されたのです。

    参考URL
    不条理の向こうに神を見たヨブ | Bible Learning 旧約聖書の中にあるヨブ記は、多くの人の心に1度は浮かんだことのある疑問、「神がいるならなぜ、こんなひどいことが起こるのを許しておくのか」という普遍的なテーマを...
    WordProjectで『ヨブ記』を読む
    https://www.wordproject.org/bibles/jp/18/1.htm

    本作では、次のように描写されています。

    悪魔はヨブの子らや彼の家畜を打ち殺し、神の雷(いかづち)をもってしたかのように、莫大な彼の富をもたちまちのうちに吹き散らしてしまった。

    するとヨブは自分の衣服を裂き破り、大地に身を投じて叫んだ。「母の胎内から裸でとび出たものは、裸で大地に帰ればよい。神がくだすったものを、神がお取りあげになったまでだ。神の御名が今後永久にたたえられますように!」お坊さま方、どうぞいまの私の涙を許してくだされ、――

    私はいま、自分の幼年時代がふたたび眼前によみがえったような心地がして、当時八歳の子供の胸が息づいたと同じ息づかいを感じ、当時と同じような驚きと、とまどいと、喜びを覚えているからである。

    当時の私の想像力はまずそのらくだの群のことでいっぱいになり、それから、神とあのような口をきいた悪魔のこと、自分の僕を破滅に追いやった神のこと、さらに「たとえわたしを罰せられようとも、あなたの御名がたたえられますように」と叫んだ僕のことが心をそそった。

    けれど、つづいて聖堂には「わが祈りの聞きとどけられんことを』の静かな、甘美な歌声がひびき、司祭の持つ香炉からはふたたび香の煙が立ち昇り、人々はひざまずいて祈りを捧げる! そのとき以来、――現についきのうもその本を手にしたのだが――私はこの聖なる物語を涙なしには読むことができない。

    まことになんと偉大な、神秘な、想像も及ばぬことがこの物語にはふくまれていることか! 

    キリスト教に馴染みのない方には狂信者のように映るかも知れませんが、「母の胎内から裸でとび出たものは、裸で大地に帰ればよい。神がくだすったものを、神がお取りあげになったまでだ」という箇所を読めば、神の真意が分かるのではないでしょうか。

    人は何もかも自力で手に入れて、なおかつ現在の幸福も、「あれだけ努力したのだから、当然のこと」と受け止めがちです。

    しかし、赤児が一人前になるまで、両親がいて、学校の先生がいて、インフラを支えてくれる労働者がいて、町の治安を守ってくれる公務員がいて、様々な人の尽力で成り立っていることを考えれば、「自分一人の努力」とは言えないと思います。

    にもかかわらず、「自分の努力で手に入れた」「自分は正しい事をしてきたのだから、人より恵まれて当たり前」みたいに驕り高ぶることを背信と言います。

    ヨブも数々の受難を経て、賞罰的な考えから、真の謙虚さに導かれます。

    それこそが真理に至る道として、神も祝福されるわけですね。

    人生の最後に期して ~ドストエフスキーの遺言

    続く箇所は、まさにドストエフスキーの遺言のようになっています。

    人間の生の偉大な神秘によって、古い悲しみはしだいに静かな感動の喜びに変り、若き日のたぎり立つような血潮に代って、おだやかに明るい老年がやって来る。

    いまでも私は日々さし昇る朝日を祝福し、以前と変りなく心からことほぎの歌をうたうけれど、それでもどちらかといえば、いまはむしろ日の入りを、夕日の長い斜めの光線を愛し、それとともに、静かな、おだやかな、感動にみたされた思い出を、長い祝福された生涯に出会ったなつかしい人々のおもかげをめでている、――それら一切の上にあるのは、万物をなごめ、和解させ、すべてを赦される神の真理なのだ! 

    私の人生は終ろうとしている。

    そのことは自分でもわかっており、感じてもいるが、しかし私は同時に、残り少ない人生の一日ごとに、私の地上の生が、もはやまったく新しい、無限の、不可知の、けれども間近に迫りつつある別の生と触れ合っているのを感じ、その新しい生への予感ゆえに、魂は歓喜にふるえ、知は光輝にみたされ、心は喜悦に泣くのである……

    神の言葉なくしては民衆は滅び去る

    ヨブ記の後は、「神に仕えるわが国の司祭たち」「とりわけ田舎の司祭たち」に、「彼らにこの本(聖書)を開いて見せ、むずかしい言葉はさけ、尊大な、高ぶった態度は見せずに、ただおだやかな感動をこめて読むがよい」と促し、「彼らが自分の言葉に耳傾け、理解してくれていることに喜びを感じ、みずからこの本の言葉に聞きほれながら、ほんのときたま朗読を中断し、平民にはわかりにくい言葉を解説してやるがよい」とアドバイスします。

    そうして、人々の心に、キリストの教えが行き渡ったら、、、

    そうするならば、わが民衆がきわめて情の深い、感謝の念に満たされた人々であり、受けた恩を百倍にもして返すことを自分で見てとれるであろう。司祭の熱誠と、感動に満ちた彼の言葉を心にとどめて、民衆は司祭の畑仕事をすすんで手助けするであろうし、家事までも手伝い、以前にまさる敬意を彼に払うようになろう――そうなれば司祭の収入もおのずと増す道理である。

    理想郷ですね。

    しかし、現実は、そうはなりませんでした。

    民衆と、その民衆の中にやがて生れるべき精神の力だけが、生みの大地からもぎ放されたわが国の無神論者たちを改宗させることができる。それに実例なくして何がキリストの言葉だろう? 神の言葉なくしては民衆は滅び去るのみである。なぜなら民衆の魂は神の言葉とあらゆる美しいものとをかつえ求めているのだから。

    今、ロシア国民に聞こえているのは誰の声でしょう。

    ドストエフスキーの願いは叶わず、他国を巻き込んで混乱の中です……

    西洋絵画の『ヨブ記』

    『ヨブ記』を描いた名作といえば、ハンガリーの巨匠、アルブレヒト・デューラーの描く『ヨブとその妻』ではないでしょうか。

    サタンの与えた試練によって、全身が皮膚病に冒されたヨブの体に、妻が水を浴びせています。妻にしてみたら、不幸のどん底に突き落とされたヨブの信仰など何の意味もありません。怒って水を浴びせる妻と困り果てたヨブの姿が、現代の失業した夫と怒れる妻、という感じですね。

    Jarbach Altarpiece 01

    その他の作品は、下記URLにて、エピソードと共に紹介されています。

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    江川卓の注解

    長老の死後しばらくして

    ゾシマ長老の一代記について、「長老の生涯の最後の日に、訪れた客人たちと交わした談話は、その一部が記録されて残っている。記録はアレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフが長老の死後しばらくして記憶をたよりに書きとめたものである。」の経緯について。

    この「しばらく」がどの程度の期間をさすかは明らかでないが、下巻三七六ページ下段に見るようにラキーチンが長老の死後二カ月で『逝けるゾシマ長老の生涯』というパンフレットをきわもの的に出版したことが皮肉に書かれているので、アリョーシャの執筆はミーチャに対する裁判が終って以後のことではないかと推測される。それだけにこの記録の時間は、作品の時間の流れから独立していると見たほうがよい。そのこととの関連で、アリョーシャの意識や文体が記録に入りこんでいる可能性が考えられる。

    私は遠い北方の某県にあるV町で生れた

    ゾシマ長老の出生に関して。

    この書きだしは、ゾシマ長老のモデルの一人と考えられている修道僧パルフェーニイの著『アトス聖山の修道僧パルフェーニイのロシア、モルダヴィア、トルコ、聖地めぐりの物語』の中の一章「ヨハネ神父の告白」に酷似している。なおこの著書はこの章の随所で利用されている。

    新旧約聖書から取った百四の聖なる物語

    ゾシマ長老の子供時代の愛読書として。

    アンナ夫人注――「夫はこの本で読み書きを習った。これはドストエフスキー博物館に保管されている」

    ウズの地に心義しく信仰篤い一人の男がいた

    ヨブ記に関して。

    これは旧約ヨブ記の冒頭の一句だが、ロシア語訳で引用されており、ゾシマの少年時代に教会でロシア語訳聖書を読むしきたりがなかったことを考えると、この情況設定にはドストエフスキーのことさらな意図が感ぜられる。教会ではもっぱら教会スラヴ語訳が読まれ、その出だしは、「アウスチジチの国に男ありき、その名をヨブという」となっていた。なお、ドストエフスキーは幼年時代からヨブ記を愛読していたが、最初はゾシマ長老の愛読書としてもあげられている『新旧約聖書からとった百四の物語』で読んだ可能性が強く、そこでは「ウズの地」となっていたかもしれない。

    アブラハムとその妻サラ

    ロシアの司祭に対して、民衆に「アブラハムとその妻サラのこと、イサクとその妻リベカのことを読んでやるがよい」。

    次の三つの物語とともに旧約聖書の創世記に出てくる。アブラハムは「信仰の父」「最初の族長」などと呼ばれ、サラは「イスラエルの母」「妻の模範」などと言われている。イサクはアブラハムの子で第二代の族長、リベカとの間にエサウとヤコブの双子があったが、リベカとヤコブのたくらみで、弟のヤコブに相続の祝福を授ける。ヤコブはエサウと争うが、やがて啓示を受けて「イスラエル」と改名され、兄とも仲直りする。ヨセフはヤコブの第十一子、ヤコブ一家のエジプト移住に重要な役割を果たす(創世記第四十五章)。

    美しいエステルと高慢なワシテ

    ロシアの司祭に対して、民衆に「美しいエステルと高慢なワシテの心打つ感動的な物語を読んで聞かせるがよい」

    旧約聖書エステル書に出てくる物語。ワシテはペルシャ王アハシュエロスの妃だが、離別され、王はその後エステルを王妃とする。

    主としてルカの福音書によるがよい

    ロシアの司祭に対して、「キリストのたとえ話も忘れてはならぬ、これは主としてルカの福音書によるがよい(私もそうしてきた)」。

    ルカ福音書は、マタイ、マルコと比べて、いわゆる「たとえ話」の数が多く、五六ページ上段の店でも述べたとおり、この作品の構造にも取り入れられていると見られるものがある。

    サウロの改宗

    ロシアの司祭に対して、『使徒行伝』からはサウロの改宗*93を(これはぜひとも、ぜひとも読んでほしい)」

    サウロは使徒の一人パウロのヘブル名。彼はキリスト教の迫害者であったが、イエスが彼に現われ、その啓示によって使徒の一人となる。この改宗の模様は使徒行伝第九章以降に詳しい。

    エジプトのマリヤ

    ロシアの司祭に対して、「偉大な女性の中でもとくに偉大な、喜びの殉教者にして神の御姿を見た者、キリストの心を抱くエジプトのマリヤの生涯を読んで聞かせるがよい」

    若い頃は《罪の女》だったが、あるとき聖堂に入ろうとして目に見えぬ手で押し戻され懺悔してエルサレムへの巡礼の一行に加わって信仰を得、その後四十八年間ヨルダンの砂漠に住んで、自分の罪を悔いた。神の人アレクセイと同じく、ビザンチンの説話にも語られ、巡礼歌にも入って広くひろまった。
     なお「エジプトのマリヤ」は、ゲーテの『ファウスト』第二部の最終章にもPater Seraphicusにつづいて登場する。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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