江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【40-1】 ゾシマ長老の名言とドストエフスキーの遺言『富者にあっては、それは孤立と精神的な自殺であり、貧者にあっては、羨望と殺人である 』

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    あらすじ

    【39】 世界を変えるのは人の心から ~告解と改悛と赦しの意義の続きです。

    ゾシマ長老は死を前にして、アリョーシャや神父らに最後の訓諭を与えます。前章では、ゾシマ長老の人格形成に大きな影響を与えた兄マルセルの死と変容、青年時代の愚かな決闘と悔悟、入信への決意、謎の訪問者の罪の告白と改悛が描かれ、後半部となる『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第3章 ゾシマ長老の談話と説教より』では、ドストエフスキーの遺言ともいうべき「願い」が綴られています。

    章内の構成は次の通りです。

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。

    最後の訓諭を与えるゾシマ長老と神父たち。兄たちの面倒に耐えられず、泣きつくアリョーシャが可愛い・・・

    ロシアの修道僧とそのもちうべき意義について

    ゾシマ長老からロシアの修道僧へのメッセージ。

    生産的か、非生産的かで人を判別しない

    修道僧がしばし「穀潰し」のように批判される件について。

    悲しいかな、修道僧の中にも数多くの徒食者、享楽者、好色漢、厚顔無恥な無頼漢がいることは事実である。俗界の教養ある人々はこの点をさして、「おまえたちは、怠け者、社会の穀つぶしで、他人の労働を食いものにしている恥知らずな乞食だ」と言うのである。

    しかしながら、修道僧の中にも、孤独をもとめ、静寂の中で一心に祈りを捧げようとする謙虚で温順な人は実に数多い。これらの人たちのことはあまり取りあげられることがなく、むしろまったく黙殺されており、もし私が、これらの温順にして孤独な祈りを求める僧たちの中から、ことによると、もう一度ロシアの大地の救い手が現われるかもしれぬなどと言おうものなら、さぞかし人は驚くかもしれない! まことに彼らは静寂の中にあって《その日その時、その月その年》のためにそなえているのだから。

    これは現代も同じと思います。

    修道僧に限らず、特殊な学問や趣味、技術開発に打ちこんでいる人に対して、「そんな非生産的なことをして何になるのか」と嘲る人がありますね。その人たちにとって、生産的とは「お金になること」であり、儲けに繋がらないものは、全て無駄と切り捨てます。

    修道僧も、儲け主義の世においては、無駄な部類に入りますし、「何のために存在しているのか」と問われたら、彼ら自身も返答に困るのではないでしょうか。

    しかし、この世の中において、「わたしは生産的です」と胸を張って語れる方が少数だし、金銭に置き換えれば、無価値な人の方が圧倒多数でしょう。他人のことを、「あの人は生産的」「あの人は非生産的」とジャッジする資格のある人が、この地上にどれだけいるのか。そんなラベル付けを始めたら、この世の多くの人は無駄な人材として排斥されるしかないですね。果たして、それが理想の社会でしょうか。

    修道僧も、じっと瞑想しているからといって、何も生産してないわけではなく、人の生き方や愛し方、苦難の抜け方、感情の収め方、いろんなことを考えています。

    それは機械を生産したり、農作物を育てたりする生産性とは無縁かもしれませんが、いざという時、人の生きる道を照らしてくれる月明かりのような存在です。昼の調子のいい時には存在すら感じないけど、いざ夜道に迷うと、微かな光でも非常に有り難く感じる。

    「あの人は生産的」「あの人は非生産的」とか、目に見える部分で判断できるものではないです。

    富者にあっては、それは孤立と精神的な自殺であり、貧者にあっては、羨望と殺人である

    現代の科学万能主義と自由主義について。

    試みに俗界の人々について、神のものなる民衆を見下している俗界の一切について見るがよい、そこで神の姿、神の真理はゆがめられていないだろうか? 

    彼らは科学をもつが、科学にあるものは、ただ五感に属するものだけでしかない。人間存在のより高次の別の半分、すなわち精神世界はまったく顧みられず、ある種の勝利感、さらには憎悪をさえもって放逐されている。

    俗界は自由を高唱し、それは最近とみにはなはだしいが、彼らの説く自由に見られるのは何であろう? 

    それはたんなる奴隷根性と自殺行為にすぎないではないか! 

    彼らは次のように言う。「おまえたちは欲求を持っているのだから、それを充(み)たすがよい。なぜならおまえたちも、名門の貴族や富豪たちと同等の権利を持っているのだから。欲求を充たすことを恐れず、むしろ欲求を増大させるがよい」――これが現在の俗界の教義である。彼らはここにこそ自由があると考えている。だが、この欲求増大の権利がもたらすものは何であろうか? 

    富者にあっては、それは孤立と精神的な自殺であり、貧者にあっては、羨望と殺人である。なぜなら、彼らは権利を与えられるのみで、欲求を充たすべき手段を示されることがないからだ。

    これも現代と同じですね。ドストエフスキーの時代より、いっそうその傾向が強まっています。

    科学の中には、「科学技術に支えられたライフスタイルと、それを維持するための社会構造」も含まれます。スマホ社会はその最たるものですし、スマホによって得られる個々の自由はもちろん、それを構築する社会の有り様(原料調達から生産販売まで)も、人の生き方や考え方に大きな影を落としています。

    スマホの時代は、一家で一台の固定電話とTVを共有していた昭和の頃に比べれば、はるかに自由で、誰にも邪魔されませんが、一方で、共通の話題は失われ、個々の結びつきは強まるどころか、いっそう脆く、表面的なものになりつつあります。

    また、SNSなどで、他人の意見や私生活を目にする機会も増えたため、自信を喪失し、自分から転落する人も後を絶ちません。

    個々の存在意義がいっそう問われる中、持てる者は自己主張と競争に駆り立てられ、持たない者は持てる者への憎悪をつのらせていく。

    「富者にあっては、それは孤立と精神的な自殺であり、貧者にあっては、羨望と殺人である」というのは、本当にその通りですね。

    自由はばかげた思いつきを生み出す

    彼らは、いまや距離がちぢまり、思想が空中を伝達されることをあげて、世界が時とともにますます一体化し、兄弟の結びつきが深まるだろうと説く。

    おお、そのような人間の一体化を信じてはならぬ。自由を欲求の増大、その速やかな充足と理解する者は、自らの本性をゆがめ、自身のうちにあまたの無意味な欲望や愚かな習性、ばかげた思いつきを生み出すだけである。

    彼らはただお互いを羨み、官能の享楽とおのれの虚栄の満足のためにのみ生きているのだ。豪華な食事をし、馬や馬車を持ち、高い官位を得、奴僕を抱えることがいまや不可欠なこととみなされ、この必要を充たすためには、生命も、名誉も、人間愛も犠牲にされかねないし、もしそれを充たしえないとなると、自殺をさえしかねないほどである。

    あまり裕福でない人たちにも同様のことが見受けられるし、貧しい人々にあっては、欲求不満と羨望はさしあたりは飲酒によってまぎらされている。しかし、やがては彼らが酒の代りに血をすするようになるのは、目に見えているのではないか。

    ここで言われる『自由』とは、大審問官 悪魔の現実論を論破せよ ~アリョーシャの接吻の意味」で、大審問官が指摘する「規範なき自由」のことです。「自由民主主義」や「自由意思」と異なり、個々が理想やモラルを無視して、好き勝手に振る舞うことを意味します。例えば、回転寿司は誰でも好きな時に好きなものを飲食する自由がありますが、割り箸を舐めたり、回転寿司に唾を吐いたりするのは自由とは言いません。飲食するのに、アロハシャツでも、ミニスカートでも、好きな服装をしていいですが、ずぶ濡れの水着で入店する自由はありません。それをはき違えて、皆が好き勝手に振る舞えば、寿司屋はたちまち危険で居心地の悪い場所になってしまいます。

    キリスト教においては、個々が自分で善悪を判断し、神の教えを無視して、好き勝手に振る舞うことを原罪と言いますが、現代も、個々の自由意思を重んじるあまり、モラルも、他者への気づかいも、無いに等しい状態になりつつありますね。確かに、寿司屋で何を食べようと個人の自由ですが、最低限、やってはいけない事があります。キリスト教も同じ、何所に出かけて、誰と遊ぼうが、個々の自由ですが、人としてやってはいけないことがあります。それを無視して、個々が好き勝手を始めれば、社会は乱れ、人心も荒んでしまいます。

    ここでは「人間の一体化」という言葉が使われていますが、「インターネットによる一元化・画一化」に置き換えれば分かりやすいです。

    皆、それぞれに違うことを考え、違う生き方をしているように見えますが、その実、他人の意見や評価、アルゴリズムのおすすめに振り回され、「右に倣え」の傾向が以前にも増して強まっています。

    「恰好いいこと」や「幸せなこと」もテンプレ化し、人気も数値で固定され、そこから外れたものは、存在価値さえ認められないのが現状です。

    1990年代後半、IT黎明期も、「世界が時とともにますます一体化し、兄弟の結びつきが深まるだろうと説く」みたいなことが言われて、非常に期待されましたが、情報の一元化や画一化は、個々の承認欲求を増大させ、人気と収入を得るためには、モラルを犯すことも厭わない、数値のモンスターと化しました。

    ドストエフスキーの時代は、「一体化」のニュアンスも、現代とは大きく異なるかもしれませんが、その時々のムーブメントに流されて、大事なものを見失い、生き方も価値観も「右に倣え」で何の疑問も感じなくなる風潮は同じです。

    物質を蓄めこめば蓄めこむほど、喜びは少ない

    物欲や物質主義は思想も心も腐らせる、という話。

    私は一人の《思想のための闘士》を知っていた。その人がじかに私に話してくれたところによると、彼が牢獄で煙草(タバコ)を奪われたとき、あまりの苦しさに、ただ煙草をもらいたい一心から、あやうく自分の《思想》を売るところだったという。

    ところがこういう連中が「自分は人類のために闘っている」などと言っているのだ。

    いったいこんな連中に何ができ、何がやれるというのだ? せいぜい目先の行動に走れるぐらいのもので、長くはもちこたえられまい。だから、自由の代りに隷従に陥り、同胞愛と人類の一体化への奉仕の代りに、私の青年時代にあの謎めいた訪問者、私の教師であった人が言ったように、孤立と孤独に陥ったのも驚くにあたらないのだ。

    それゆえにこそ俗界では、人類への奉仕とか、人々の兄弟愛や一体性という思想がしだいしだいに消滅し、まことこの思想はもはや嘲笑によってさえ迎えられているのである。なぜと言って、自分の頭でつくり出した無数の欲求を満足させることが、すでにそれほどまで習い性となっているならば、これらの自由なき人間が習慣を振り切って、いったいどこへ行けるというのか? 孤立の中に閉じこもる人間にとって、全体など用のないものである。

    こうして、物質を蓄めこめば蓄めこむほど、喜びは少ない、という結果になってしまったのである。

    「一本の煙草のために思想を売る」は現代も同じですね。

    思想を、「理念」や「モラル」に置き換えれば分かりやすいです。

    目先の利益のために、商売人の良心もなくす人は少なくありません。

    そうした人が「社会のため」「人類のため」を標榜し、偉大な事業をしているようにアピールするのはよくある話です。

    その結果、富が増え、名声を得ても、並の成功では満足できず、かえって不幸に感じるのもよくある話です。

    そればかりか、真面目な人、理想主義の人を嘲笑い、自分はこんなに儲けてる、お前らより偉いんだと威圧する人もありますね。

    「孤立の中に閉じこもる人間にとって、全体など用のないものである」というのは、自分を宣伝するために平和や友愛と説くけれど、本質的には「自分大事」で、社会全体がどうなろうと知ったことではない、無責任を指します。

    しかし、彼らもまた愛を求めているので、私利に走れば走るほど、自慢すればするほど、本当に善い人は遠のいて、ますます孤独になっていく喩えです。

    沈潜の価値

    俗界から切り離され、静かに思索する修道僧こそ真に自由であり、世界を変える者である・・という主張。

    修道僧の歩む道は、これとは異なる。服従や精進や祈祷はいまや嘲笑をさえ受けているが、しかしながらそこにこそほんものの、真の自由への道がひそんでいる。余分の無用な欲求を切り捨て、服従によって自惚と傲慢に泥(なず)んだおのれの意志を鞭打ち、やわらげ、神の助力のもと、そのことによって精神の自由を獲得し、それとともに精神の喜悦をもかちとるのである! 

    孤立に陥った富者と、物質および習慣の暴君から解放されたこの者と、そのいずれが偉大な思想をかかげ、それに奉仕する上で、より大きな能力をもっているだろうか? 修道僧はその孤独な隠遁生活のゆえに非難を受けることがある。「おまえは自分一人を救うために僧院の壁の中に独居し、人類への兄弟の奉仕を忘れてしまったではないか」というわけである。

    しかし、どちらが兄弟愛に熱心であるか、いましばらく見ようではないか? 

    というのは、孤独に閉じこもっているのはわれわれではなく、彼らであるのに、彼らにはそれがわからぬからである。

    現代のSNSもそうですが、多くのノイズに囲まれていると、だんだんノイズの色に染まり、集中力も削がれていくものです。

    ところが、現実社会においては、より多く発信する者が「よく考えている」とみなされ、自分からますますノイズの中に飛び込んでいく傾向がありますね。

    別にSNSなどやらなくても、日々の生活において、深く沈潜する人はありますし、発信もしない、ニュースやSNSも見ないからといって、何の気付きもないわけではありません。

    むしろ良質な絶対的孤独の中で、多くを悟る人も少なくないのではないでしょうか。

    かえって、自分の支持者をかかえて、支持者を満足させることに躍起になっている人の方が、自分自身を見失い、本当に価値あるものから孤立して、精神的孤独に陥っているのではないかと思います。

    あえて言うなら、真実は宣伝を必要としません。

    宣伝しなくても、誰もがそれが正解だと認識しているからです。

    いい年した大人が「友だちや家族を大切にしよう」と必死に主張しない所以です。

    逆の見方をすれば、大声で叫ばなければ社会に振り向いてもらえない主張というのは、どこが無理がある証しです。

    修道僧は、俗世から離れたところで沈潜しますが、だからといって、俗世から孤立し、社会に無関心というわけではありません。

    むしろ、大声で宣伝する人よりも、深く人や社会について思い巡らせていたりします。

    思想は自分を大きく見せるためのファッションではなく、真理に至るための長い道のりだからです。

    ロシアの救いは民衆にあり

    ドストエフスキーの夢はいまだに叶っていません。

    われわれ修道僧の間からは、太古よりして、民衆を率いる活動家が多数輩出している、とすれば、どうして今日そのような人物が出てはならない理由があるだろうか? 

    ところで決然と立ちあがって大いなる事業に向かうのは、他のだれでもない、その同じ謙虚で温順な人たち、禁欲と沈黙の行者たちなのだ。

    ロシアの救いは民衆にある。そしてロシアの僧院は太古から民衆とともにあった。もし民衆が孤立に陥っているなら、われわれもまた孤立の隠遁生活を送る。民衆はわれわれと同じような信仰をもっており、信仰をもたぬ活動家は、たとえ誠実な心と天才的な頭脳をもっていても、わがロシアでは何事もなしえずに終るであろう。

    このことはよく記憶しておいてほしい。民衆は無神論者を迎え討ち、彼らを打ち負かして、単一の正教のロシアが出現するであろう。

    民衆を大切にし、その心を守ってやらねばならぬ。静寂の中で民衆をはぐくみ育てるがよい。これこそ修道僧たるみなさん方の偉業である、なぜならこの国の民は神の体現者なのだから。

    出現したのは、神を否定し、民衆を抑圧する、ソビエト政権と帝国主義でした。

    神の体現者どころか、いまでは独裁者の奴隷です。

    ドストエフスキーとしては、地上が神の教えによって正しく導かれ、人々が愛し、支え合うことを願ったのでしょうけど、大国の野望とエネルギー資源は神の義より、はるかに強烈で、マンモンの巣窟と化しました。

    あるいは、ロシア民衆には、そういう性向があることを、ドストエフスキー自身が一番よく知っていたのかもしれないですね。

    アイキャッチ画像 Lenin October Soviet Ussr Communism Revolution Art Print Poster Wall Decor


    ロシア人が優れたポテンシャルを有していることは、昭和の宇宙開発や技術競争、フィギュアスケート、ボリショイバレエ、クラシック音楽など芸術全般を見ていたら分かります。確かに非人間的な英才教育で、文化芸術さえも国策として利用する向きはありましたが、いくら国が力を入れようと、個々がぼんくらでは、天才ピアニストにも育成しようがありません。。優れたポテンシャルが万人の幸福に還元されず、帝国主義の勢力拡大に利用され、令和においては社会的にも文化的にも時代に逆行していることが我慢ならんのです。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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