江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    ⑨ いかにして我は無神論者となりしか ~不条理な現実とイワンの義憤 《原卓也のカラマーゾフ随想》

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    神も悪魔も存在しない ~イワンの無神論

    『カラマーゾフの兄弟』の有名な場面に、神の存在を問う、次のようなやり取りがある。

    フョードル 「とにかく答えてくれ。神はあるのか、ないのか? ただ、まじめにだぞ! 俺は今まじめにやりたいんだ」
    イワン 「ありませんよ、神はありません」
    フョードル 「アリョーシカ、神はあるか?」
    アリョーシャ 「神はあります」
    フョードル 「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」
    イワン 「不死もありません」
    フョードル 「全然か?」
    イワン 「全然」

    フョードル 「アリョーシカ、不死はあるのか?」
    アリョーシャ 「あります」
    フョードル 「神も不死もか?」
    アリョーシャ 「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」

    フョードル 「どうも、イワンのほうが正しそうだな。まったく考えただけでも、やりきれなくなるよ、どれだけ多くの信仰を人間が捧げ、どれだけ多くの力がむなしくこんな空想に費やしてきたことだろう、しかもそれが何千年もの間だからな! いったいだれが人間をこれほど愚弄しているんだろう? イワン、最後にぎりぎりの返事をきかせてくれ、神はあるのか、ないのか? これが最後だ」
    イワン 「いくら最後でも、やはりありませんよ」
    フョードル 「じゃ、だれが人間を愚弄しているんだい、イワン?」
    イワン 「悪魔でしょう、きっと」
    フョードル 「じゃ、悪魔はあるんだな?」
    イワン 「いませんよ、悪魔もいません。 ≪中略≫  もし神を考えださなかったとしたら、文明も全然なかったでしょうね」

    第一部 第三編 好色な男たち / 第八章 コニャックを飲みながら

    ⑦ 屁理屈と無神論 その理論は本心ですか?《カラマーゾフ随想》原卓也訳』にも書いているが、性格のねじくれた召使いスメルジャコフと違って、イワンの無神論は純粋な信仰心から発している。

    スメルジャコフは、はなから聖書もイエス・キリストも信じる気持ちはなく、世を呪って、嘲笑うだけだが、イワンは元々、真面目で純粋な人であり、信仰心もあった(と思う。作中には明記されてないが)

    ところが、現実には民衆は救われず、フョードルみたいに卑しい人間が成り上がるような、不条理ばかりがはびこり、腹の立つことばかり。

    なまじ知性が高いために、現実にも、キリスト教にも失望し、「信仰心が何の役に立つ?」と懐疑的になった。

    その気持ちを一言で表せば、「神など、いない」であり、その気持ちは、理不尽な解雇で人権を踏みにじられたり、天災で親兄弟や家財を失った人なら、大いに共感するのではないだろうか。

    イワンは、その考えをさらに発展させて、『大審問官』のようなストーリーを作り出した。

    神がなければ、罪もなく、罪がなければ、人も罪悪感に苦しむことはない。

    神も悪魔も、人間が考え出した一つの概念に過ぎず、そんなものに拘る方がかえって不幸になる――というのがイワンの考えだ。

    それもまた一つの真理かもしれないが、この世に生きる限り、自分一人で処理しきれない問題は数あって、理屈だけで乗り越えられるものではない。

    たとえば、天災で親兄弟や家財をなくした人も、「神など、いない」と天地を呪うかもしれないが、死んだ家族のことは、どうか極楽で幸せに暮らして欲しい……と願うだろう。

    その「極楽」の概念を提供しているのは、仏教やキリスト教であり、「死ねば無。父や母も無に還っただけ」と腹の底から納得できる人など皆無だろう。

    ということは、地上の様々な問題に対し、ある程度は理屈で納得できても、心情として救われない部分は残る。

    そこに手を差し伸べるのが仏教やキリスト教的な考えであり、アリョーシャやフョードル相手に、あれほど強弁を披露したイワンも、最後には心を病んでいく過程を思えば、宗教の本質は、神の存在と目に見える報いではないのか分かるのではないだろうか。

    イワンやスメルジャコフのように、「世の中そんなもの」と開き直るのが一番安易だが、果たして、開き直った先に、どんな幸福や救いがあるのか。

    たとえば、フョードルは淫蕩ではあるが、非常に人間的である。

    この世の中を人間として見詰め、人間として欲望する。

    信徒の苦労とは真逆に、神父がいい暮らしをしていれば、素直に「おかしい」と思い、この世に神も救いもあるものかと憤ったりもする。

    だが、それは決して神の否定ではなく、単にフョードルはああいう世界と性格的に相容れないだけで、必要性は理解しながらも、自分から馴染もうとはしない。

    きわめて普通のおじさんである。

    逆に、イワンやスメルジャコフは、自分の世界に閉じこもり、理屈で全てを解決しようとする。

    心のどこかでは、人間としての限界を感じつつも、神に祈ってもどうにもならないことを体感的に知っているので、そこに身を委ねようとはしない。

    むしろ、神に裏切られた感が強いので、必死に否定している。

    そういう意味では、フョードルやアリョーシャ以上に「神」を意識している人であり、それもまた一種の「肯定」と言えるのではないだろうか。

    ちなみに、上記の問答では、フョードルが「どうも、イワンのほうが正しそうだな」と答え、その解釈も様々だが、フョードルの意味する「正しい」は、「神も悪魔もいない」というイワンの回答に頷いているわけではなく、「イワンがそのように考えるのはもっともだ」ぐらいの意味だと思っています。

    よほどの狂信者でもない限り、現代社会において、神を信じることは、否定することより難しいので。

    いかにして我は無神論者となりしか

    「第一部 第五編 プロとコントラ / 第三章 兄弟 近づきになる」より。

    料亭『みやこ』でアリョーシャとイワンが交わす会話は、『カラマーゾフの兄弟』の中でも極めて感動的な場面である。
    (参考記事 イワンとアリョーシャの兄弟愛 江川卓の『謎とき カラマーゾフの兄弟』より ~桜んぼのジャムのエピソード

    イワンが父の用命を受けて、明日にはモスクワに発つという時、アリョーシャは居酒屋(料亭『みやこ』)でイワンと落ち合う。

    ドミートリイがグルーシェンカと金銭に執着し、「父親を臼の中で粉々にしてやる」などと恐ろしいことを口走っているからだ。

    最初は警戒していたイワンも、今ではアリョーシャに愛着を感じ、心を開いて話すようになっている。

    アリョーシャも、「ドミートリイ兄さんは、イワンは墓石だなんて言うけど、僕ならイワンは謎だって言うな。兄さんは今でも僕にとって謎ですよ、でもある程度はもう理解できましたけどね」と情愛を示し、二人の関係は決して険悪ではない。

    冷たい無神論者に見えるイワンだが、心底には温かな血が通っていることが窺える。

    人生のどんな嫌悪にも、俺の若さが打ち克つ

    イワンは、世の中への幻滅を口にしながらも、下記のように希望を語る。

    「かりに俺が人生を信じないで、愛する女性にも幻滅し、世の中の秩序に幻滅し、それどころか、すべては無秩序な呪わしい、おそらくは悪魔的な混沌(カオス)なのだと確信して、たとえ人間的な幻滅のあらゆる恐ろしさに打ちのめされたとしても、それでもやはり生きていきたいし、いったんこの大杯に口をつけた以上、すっかり飲み干すまでは口を離すものか! ≪中略≫

    三十までは、どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪にも、俺の若さが打ち克つだろうよ。

    この人生のへの渇望ってやつはな。だれが何と言おうと、そいすはお前の内部にも必ず巣食っているにちがいないんだ。

    アリョーシャ。生きていたいよ。だから俺は論理に反してでも生きているのさ。たとえこの世の秩序を信じないにせよ、俺にとっちゃ、≪春先に萌え出る粘っこい若葉≫が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。そうなんだ、ときにはどこがいいのかわからず好きになってしまう、そんな相手が大切なんだよ。

    しょせん行き着く先は墓場だってことはわかっているけど、しかし何よりいちばん貴重な墓場だからな、 そこには貴重な人たちが眠っているし、墓石の一つ一つが、過ぎ去った熱烈な人生だの、自分の偉業や、自己の真理や、自分の逃走や、自己の学問などへの情熱的な信念だのを伝えてくれるから、俺は、今からわかっているけど、地面に倒れ伏して、その墓石に接吻し、涙を流すことだろう。そのくせ一方では、それらすべてがもはやずっと以前から墓になってしまっていて、それ以上の何者でもないってことを、心から確信しているくせにさ。

    俺が泣くのは絶望からじゃなく、自分の流した涙によって幸福になるからにすぎないんだよ。自分の感動に酔うわけだ。春先の粘っこい若葉や、青い空を、俺は愛してるんだよ、そうなんだ」

    上記にも書いたように、イワンは決してスメルジャコフのように心のねじけた無神論者ではない。

    根は理想家であり、人生に対する夢や情熱も人一倍だ。

    だから余計で現実社会に失望し、「神も仏もあるものか」という気分になってくる。

    冷笑的な無神論を展開しながらも、心の底では、自分も、世界も救われたがっているのがよく分かる。

    ただ、それを神や教会に求めるには、あまりに理不尽な出来事が多すぎて、もはや愛も奇跡も信じられなくなっているのである。

    神に代わる思想

    次いで、二人はドミートリイやカチェリーナについて語り合い、『汝はいかなる信仰をしているか、それともまったく信仰しておらぬか?』と、俺に問いただすためだろうというイワンの問いかけから、神と信仰に関する熱い議論が交わされる。

    「(一部の連中が)飲屋でのわずかな時間をとらえて、いったい何を論じ合うと思う? 
    ほかでもない、神はあるかとか、不死は存するかといった、世界的な問題なのさ。
    神を信じない連中にしたって、社会主義だの、アナーキズムだの、新しい構成による全人類の改造だのを論ずるんだから、しょせんは同じことで、相も変わらぬ同じ問題を論じているわけだ、
    ただ反対側から論じているだけの話でね。
    つまり、数知れぬほどの多くの、独創的なロシアの小僧っ子たちのやっていることと言や、現代のわが国では、もっぱら永遠の問題を論ずることだけなんだよ。
    そうじゃないかね?」

    結局、神やイエス・キリストを否定しても、人間はそれに代わる「宗教的存在」を求めており、それはイデオロギーであったり、哲学だったり、様々だ。

    パイーシイ神父は、それを「奇形」と表現し、イワンは「反対側から論じている」と評している。
    (参考記事 ⑧ 理想は生まれ出するも奇形ばかり ~ゾシマ長老の最後の訓戒《カラマーゾフ随想》原卓也訳

    神は人間が考えだしたもの

    さらにイワンは「俺だって神を認めているかもしれないんだぜ」と意外なことを口にする。

    「十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考えだすべきである、と言ったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。≪中略≫

    俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ。というわけで、俺は神を認める」

    まずこのパートで繰り返しイワンが口にする『ユークリッド的』『ユークリッド幾何学』について、きちんと理解しておこう。

    こちらの京都産業大学の福井 和彦 教授の説明が非常に分かりやすい。

    たとえば、東京-ロサンゼルス間に真っ直ぐ引かれた線は、純然たる直線に見えるが、現実には地球は丸いのだから、この線も微妙に曲がっているのが正解。

    そのように『何事も杓子定規には計れない』――この柔軟、かつ相対的な視点が、『こうあるべき』という観念に突破口を開き、今までとは違った人生観や世界観をもたらすのだが、イワンは「直線は直線」という見方しかできない。

    本文に、「二本の平行線も、ひょっとすると、どこか無限の世界で交わるかもしれない」などという空想ができるほどお目出度い感性の持ち主ではない、ということだ。

    1+1は1だし、真っ直ぐ引かれた線は直線に違いないのである。

    ユークリッド幾何学

    イワンは言う。

    「神はあるか、ないかという問題はね。これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ」。

    彼は知性の人であり、自分にも他人にも嘘のつけないタイプである。

    目の前の直線について、「現実には地球は丸いのだから、その線も実質は曲がっている」などという、狐につままれたような物の考えは出来ない。

    ゆえに、イワンは断言する。

    というわけで、俺は神を認める。それも喜んで認めるばかりか、それ以上に、われわれにはまったく計り知れぬ神の叡知も、神の目的も認めるし、人生の秩序や意味も信じる。われわれがみんなその中で一つに融和するとかいう、永遠の調和も信じる。≪中略≫

    ところが、どうだい、結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することは知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのとこを理解してくれ。俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ。

    ここは『神』と言葉通りに受け止めるより、「神的なもの」と解釈した方が分かりやすいだろう。

    イワンは、「人間的には絶対的指針となるものが必要」と理解しているし、キリスト教や神の存在意義も認めている。

    むしろ、人間や社会の脆弱性を知悉した上で、その必要性を積極的に肯定しているのではないか。

    子供の犠牲の上に天国が築けるが

    さらに、イワンは言う。

    世界の終末には、何かこの上なく貴重なことが生じ、現れるにちがいない。
    それは、人間界に起こったすべてのことを赦しうるばかりか、正当化さえなしうるくらい、貴重なことであるはずだ。
    しかし、たとえそれらすべてが訪れ、実現するとしても、やはり俺はそんなものを認めないし、認めたくもないね!」

    その理由を、イワンは子供の苦悩に喩える。

    たとえば、女性や子供を残虐な方法で痛めつけるトルコ人。
    七つになる自分の娘を細枝で鞭打つインテリの紳士と奥さん。
    五つの女の子に暴力をふるい、真冬の寒い日に、一晩中便所に閉じ込める母親と父親。
    将軍の飼い犬にケガをさせたが為に、母親の目の前で犬の群れに噛み殺された小さな男の子。

    大人はともかく、子供の悲劇はどうなるのか。

    たとえ、神の奇蹟が本当で、天上のもの、地下のもの、すべてが一つの賞賛に溶け合い、母親が迫害者と抱きあって『主よ、あなたは正しい』と涙ながらに讃える日が来たとしても、痛めつけられた子供の涙まで購われるものではない。

    俺は人々がこれ以上苦しむのはまっぴらだよ。 母親が、犬どもに我が子を食い殺させた迫害者と抱擁し合うこなんてことが、まっぴらごめんなんだよ! いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか!」と、イワンは叫ぶ。

    この世界中に、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか? 
    俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。
    それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。
    たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。

    イワンの無神論が義憤に基づく。

    世界中の悲惨な出来事を見れば、誰でもそう思うだろう。

    やり場のない怒りを、イワンはこんな言葉で表す。

    第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。

    かりにこの地上で子供たちまでひどい苦しみを受けるとしたら、もちろんそれは自分の父親のせいなんだ。知恵の実を食べた父親の代わりに罰を受けているわけだよ。≪中略≫

    まだ意味さえ理解できぬ小さな子供が、真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽけな拳でたたき、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、≪神さま≫に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのにさ。

    いったい何のために、これほどの値を払ってまで、そんなくだらない善悪を知らにゃならないんだ。だいたい、認識の世界を全部ひっくるめたって、≪神さま≫に流したこの子供の涙ほどの値打ちなんぞありゃしないんだからな。俺は大人の苦しみに関しては言わんよ。大人は知恵の実を食べてしまったんだから、大人なんぞ知っちゃいない。みんな悪魔にでもさらわれりゃいいさ、しかし、この子供たちはどうなんだ!

    たとえば、紛争地で、五歳の子供が砲弾で手足を吹き飛ばされ、「足が痛いよ。どうして僕だけこんな目に会うの?」と問われた時、あなたはその子に「もうすぐ神さまの所に行くのですよ。そこでは痛みも苦しみも知らずに、永遠に幸福に暮らせるのよ」「市街地に爆弾の雨を降らせるようなテロリストでも、神さまはお赦しになります。私たちは、そういう罪人とも肩を抱き合い、神を讃えるべきなのです」などと言えるだろうか。

    たとえ大人は知恵を働かせ、赦しの境地に至ったとしても、子供にそんな事が理解できるはずがない。

    つまり『神』も『赦し』も、大人の理知によって初めて理解できることであり、もっと意地の悪い見方をすれば、聖書も原罪も「大人が作り出したファンタジー」と言えなくもない。

    イワンが憤りを覚えるのは、まさにその点だ。

    「人類の始祖が知恵の実を食べたから、お前も罰を受けているんだよ」などと、子供に向かって言えるだろうか。

    子供にとっては、今、自分が感じる痛み苦しみが全てであって、神の栄光や赦しなど、どうでもいい。

    イワンが神や信仰心を否定するのも、頷ける話なのだ。

    天国への切符を慎んでお返しする

    そうして、イワンは次のような結論に達する。

    この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか? 
    俺は調和なんぞほしくない。
    人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。
    たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。≪中略≫
    俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ。

    つまり、イワンは、神の存在を否定しているわけではなく、「現実に誰をも救わないものに帰依しようとは思わない」ということだ。

    そう考えると、世間一般の「無神論者」とはかなり違っていて、「失望者」、あるいは「求道者(真に人の救いとなるものを探求する)」といった方がふさわしい。

    彼なりに苦悩し、そして、今も探し続けている。

    神とは、赦す存在

    それに対して、アリョーシャはこう答える。

    「でも、そういう存在はあるんですよ。その人(訳注 キリストのこと)ならすべてを赦すことができます。すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができるんです。なぜなら、その人自身、あらゆる人、あらゆるもののために、罪なき自己の血を捧げたんですからね。
    兄さんはその人のことを忘れたんだ、その人を土台にして建物は作られるんだし、『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道は開けたからだ』と叫ぶのはその人に対してなんです」

    この議論の結末は、『大審問官』が語られた後、アリョーシャがイワンに口付けする行為に集約される。

    くちづけは、悲惨な現実の何をも救わない。

    だが、少なくとも、イワンの心は慰められたのではないだろうか。

    人間を愛するか、世界を愛するか

    江川訳の『人間は近づきすぎると愛せない』にも書いているように、愛は決して容易いものではないし、理解し合うにも時間がかかるものである。

    「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。
    いつか、どこかで≪情け深いヨアン≫という、さる聖人の話を読んだことがあるが、飢えて凍えきった一人の旅人がやってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿ただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。
    しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ。義務感に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと俺は確信してるよ。
    人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ。
    相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ。

    高邁な理想を語る教育者や文化人ほど、家庭はぼろぼろ、親子関係や夫婦仲も冷え切って……ということが珍しくない。

    人類全体を愛するのはたやすいが、身近な人間は、日常的に諍い、心から愛することができない。

    会ったこともない難民に思いを馳せることはできても、いざ、その一人が目の前に現れ、あなたの支援に文句を言ったら、たちまち関心をなくすだろう。

    いや、むしろ、「これだけ尽くしているのに」と立腹するかもしれない。

    にもかかわらず、以前と同じ気持ちで奉仕できれば、それが愛だ。

    だが、そこに辿り着くのは普通の人間には至難の業ではないだろうか。

    イワンも、身近な人間とじっくり向かい合うよりは、人類全体に思いを馳せた方が気楽なのだろう。

    だから、貴族令嬢カチェリーナとの関係も微妙だった。

    「相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまう」は、「相手の嫌な所が目に入った途端、気持ちも冷める」と解釈すると分かりやすい。

    それに対する、アリョーシャの見解は次の通り。

    「長老もやはり人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ」

    『人間の顔』というのは、ありのままの性格。

    ゾシマ長老といえど、嫌なところもあれば、弱いところもある。

    だからといって、尊敬の念まで消えてしまうわけではなく、そうしたところも含めて、長老を慕っている。

    イエス・キリストの愛も、そういうものだという話だ。

    「わかりすぎるほどですよ、兄さん、本心から、腹の底から愛したいなんて、実にすばらしい言葉じゃありませんか。兄さんがそれほど生きていたいと思うなんて、僕はとても嬉しいな」

    アリョーシャは叫んだ。

    「この世のだれもが何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」

    「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」

    「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理より先に愛することです

    人間の下劣さや、社会の不条理に対して、イワンはあれこれ考え過ぎるのだ。

    一つ嫌なことを見聞きすると、世界全体に絶望して、厭世気分になってしまうのだろう。

    その点、アリョーシャは、フョードルやドミートリイの泥沼を見せれても、そこまで自分を責めたり、落ち込んだりしない。

    「人間とはそういうもの」という諦観があるからだろう。

    「人間とはこうあるべき」のイワンとは違う。

    論理より先に愛するというのは本当にその通りで、あるいは、イワンは、人と人のぶつかり合いを恐れているのかもしれない。

    アリョーシャは言う。

    兄さんの仕事の半分はできあがって、自分のものになっているんです。
    だって、兄さんは生きることを愛しているんですもの。
    今度は後半のことを努力しなけりゃ。そうすれば兄さんは救われますよ。

    本当にその通りで、アリョーシャの側を離れず、もっといろいろ話して、ドミートリイの問題も一緒に協力できれば、イワンの人生も大きく変わっていただろう。

    だが、その前に、スメルジャコフのような人間につけ込まれ、父親殺しを願っているかのような観念を植え付けられる。

    そして、それはカラマーゾフの兄弟にとって、大変な悲劇だったが、もしドストエフスキーが続編を書いていたら、イワンにも救済の道筋があったかもしれない。

    それは、もしかしたら、アリョーシャの死の前日に叶っただろう。

    皇帝暗殺説が本当だとしたら……。

    大審問官に続く重要な問いかけ

    『カラマーゾフの兄弟』といえば、大審問官というくらい有名なので、人の目はそちらに吸い寄せられがちだが、本作の心髄、ドストエフスキーの魂が一番こもっているのは、料亭『みやこ』で語られる、イワンとアリョーシャの会話である。

    大審問官に続くパートなので、ここを読み違えると、なぜ話自体が理解できないし、その答えとしての、アリョーシャの口付けも意味が分からないだろう。

    イワンは決して背徳者ではないし、根っからの極悪人でもない。

    むしろ情に厚く、純粋真っ直ぐな正義漢だ。

    それが災いして、思想の谷に挟まった、哀れな人でもある。

    アリョーシャを理想とするなら、イワンはドストエフスキーの偽らざる心情であり、ここに挙げた台詞も、神の御前で大声で叫びたかったことだろう。

    ドストエフスキーの祈りは届かず、人類もまだ救われてはいない。

    我々はまだ、道の途上である。

    アイキャッチ画像 The Grand Inquisitor By bobangeba

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