江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    罪の告白と改悛、愛と赦し ~神の視点を求めて

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    キリスト教を理解することは神の愛を実践すること  ~「赦す」「手放す」「委ねる」』にも書いていますが、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』に限って言えば、キリスト教の心髄が非常に色濃く現われていると思います。

    ある評伝では、ドストエフスキーの作家性について、「キリスト教的人道主義と評していましたが、私もそう思います。

    ここで言う「キリスト教的人道主義」というのは、「キリスト教徒のようにピュアで、慈悲深い」という意味ではなく、哲学や人間性の根幹にキリスト教があり、その体現者であらんとする志しですね。

    仏教か、キリスト教かと問われたら、キリスト教だし、ニーチェみたいにシニカルに批判するか、それでも信じ抜くかと問われたら、信じ抜く方を取ります。

    キリスト教はドストエフスキーの血潮であり、実生活はともかく、創作においては、限りなく神に近づき、同化しようとしている様が見て取れます。

    「神のように賢くなる」という意味ではなく、神が人間を見る眼差しを思い巡らせるわけですね。

    しばしば言われることですが、世界の大作家が必ずしも善人とは限りませんし、女癖の悪いのが、美しい恋愛小説を書くこともあります。

    創作する能力と、実生活をハンドルする能力は、まったく別ものであり、必ずしも作品と人柄は一致しません。

    実生活がめちゃくちゃでも、創作においては、限りなく神の視点に近づく人もあれば、実生活は立派でも、そこまで想像力が及ばない人もあり、こればかりは天賦の才としか言いようがないのではないでしょうか。

    ドストエフスキーも、創作においては、限りなく神の視点に近づき、その思想は、「罪の告白」「改悛」「赦し」に集約されているように感じます。

    が、どちらかといえば、赦しよりも、「罪の告白」と「改悛」に重きを置いているような印象ですね。「世界を新しく改造するためには、人間自身が心理的に方向転換をしなければならない」という台詞にもあるように、個々の内的変化こそ、最大の革命ですから。

    父親殺しのメインストーリーの流れをぶった切るような「ゾシマ長老の告白(伝記的資料)」ですが、荒ぶった青年ゾシマが従者を殴って反省、決闘相手と手を取り合って改悛、謎の訪問者の告解を聞いて、赦しを実践という流れは、アリョーシャの赦し(とりわけイワンに対する)の源流として、必要欠くべからざるものかもしれません。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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