江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【40-6】 ゾシマ長老の死 ~床(пол)と大地(земле)に関する考察 ~翻訳は分かりやすければそれでいいのか

    ゾシマ長老の死 カラマーゾフの兄弟
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    この記事では、ゾシマ長老の死と、ドストエフスキーの作中に登場する「床(пол)と大地(земле)に関する考察と、新訳ブームの問題について紹介しています。

    前のエピソード

    ゾシマ長老は死を前にして、アリョーシャや神父らに最後の訓諭を与えます。前章では、ゾシマ長老の人格形成に大きな影響を与えた兄マルセルの死と変容、青年時代の愚かな決闘と悔悟、入信への決意、謎の訪問者の罪の告白と改悛が描かれ、後半部となる『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第3章 ゾシマ長老の談話と説教より』では、ドストエフスキーの遺言ともいうべき「願い」が綴られています。

    章内の構成は次の通りです。

    動画で確認

    TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007年)より。

    1968年版の映画では省略されたゾシマ長老の死が描かれています。

    ドストエフスキーの描写通り、ゾシマ長老は床に伏し、大地に祈り、感謝して、息を引き取ります。

    後述、「床」と「大地」に関する議論を参考にしてください。

    https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=11592

    目次 🏃‍♂️

    床(пол)と大地(земле)に関する考察

    ゾシマ長老の死は、次のように描写されています。

    2007年のTVドラマでも、忠実に再現されているのが分かります。

    長老の死はまことに突然の出来事であった。この最後の夜、長老のもとに集まった人々は、だれもが長老の死の近いことを充分に心得ていたのだが、それでもなお死がこのように唐突に訪れようとは予期できなかった。それどころか、彼の親しい友人たちは、前にもすでに指摘したとおり、その夜の長老がいかにも元気そうで、口数も多いのを見て、たとえ一時的にもせよ、長老の病状が目に見えて持ち直したものと信じ込んでいたほどであった。

    後に驚きの念をこめて伝えられたところによると、死の五分前にさえ、なんの徴候も認められなかったという。長老はふいに胸のあたりにはげしい痛みを覚えたように見受けられ、まっ青な顔になって、心臓のあたりを両手で強く押さえた。

    一同はいっせいに席を立って、長老のそばへ駆け寄った。

    だが長老は、苦しみながらも、いぜん笑顔で一同を眺め、やがて肘掛椅子から静かに床にすべりおりて、その場にひざまずいた。それから顔を地にすりつけるようにしながら、両手をひろげ、歓喜に酔いしれたような様子で、祈りながら大地に口づけ(自分がいま教えたとおりに)、そのまま静かに、喜ばしげに、魂を神に捧げたのである。

    問題は、「静かに床にすべりおり、ぞの場にひざまずき、顔を地にすりつけるようにしながら、両手をひろげ、歓喜に酔いしれたような様子で、祈りながら大地に口づけ」という描写です。

    床にすべりおりたゾシマ長老が、祈りながら「大地」に口づけ……というのは、物理的には有り得ない状況ですね。

    ゾシマ長老は、庵室の居て、戸外で息を引き取ったわけではありません。

    たとえ庵室の『床』が、板敷きのない、土間のような作りであったとしても、「大地に口づけ」というのはどこか不自然です。

    しかしながら、賢明な読者なら、『大地』が霊的な象徴であり、人間界や生命に対する比喩だと分かると思います。

    ゆえに、この箇所を、「大地に口づけ」と翻訳した原卓也氏は正しいし、江川訳も同様です。

    物理的に正しいか否かの問題ではなく、「ゾシマ長老は何に口づけたのか」=ドストエフスキーの意図をきちんと理解しているかどうかが大事なんですね。

    以下は、木下和郎 / 連絡船の文芸コラム『亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか』からの抜粋です。

    勇気や信念」としか、いまのところいいえないもの(400P)(PDF版より)

    もうひとつの同意できない箇所を挙げると、これは誤訳そのものに関わる箇所だ。藤井氏が『カラマーゾフの兄弟』の「長老ゾシマの死の場面」の訳を誤訳であると述べているところだ。
    (萩原俊治「『翻訳の品格』」 ── 「こころなきみにも」 http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20130211/1360578857

    この箇所ではロシア語 земля (大地・床)に対する訳語が問題にされています。これについて、私は昨二〇一二年、藤井一行氏にメールで問い合わせたのでした(藤井一行氏からの回答はありませんでしたが、回答のないことについては、私に納得できる正当な理由が中島章利氏から伝えられました)。

    私の問い合わせを必要な部分だけ(不必要な部分は省いて)引用してみます。

    ---------

    藤井一行さま

    お訊ねしたいのは、『翻訳の品格』52ページからの「長老ゾシマの死の場面」についてです(藤井さんは米川訳を中心に論じられていますが、
    ここで私は原卓也訳の読者としてお訊ねします)。 

    だが、長老は苦しみながら、なおも微笑をうかべて一同をながめやり、静かに肘掛椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、大地にひれ伏し、両手をひろげ喜ばしい歓喜に包まれたかのように大地に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引きとったのだった。
    (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

    右の「床」、「大地」について藤井さんは疑問を呈していらっしゃいます。

    まず、米川訳の傍線部分の「土」、「大地」という訳語に注目されたい。

    もうひとつの同意できない箇所を挙げると、これは誤訳そのものに関わる箇所だ。藤井氏が『カラマーゾフの兄弟』の「長老ゾシマの死の場面」の訳を誤訳であると述べているところだ。
    萩原俊治「『翻訳の品格』」 ── 「こころなきみにも」

    この箇所ではロシア語 земля (大地・床)に対する訳語が問題にされています。これについて、私は昨二〇一二年、藤井一行氏にメールで問い合わせたのでした(藤井一行氏からの回答はありませんでしたが、回答のないことについては、私に納得できる正当な理由が中島章利氏から伝えられました)。私の問い合わせを必要な部分だけ(不必要な部分は省いて)引用してみます。

    *

    藤井一行さま

    お訊ねしたいのは、『翻訳の品格』52ページからの「長老ゾシマの死の場面」についてです(藤井さんは米川訳を中心に論じられていますが、ここで私は原卓也訳の読者としてお訊ねします)。 

    だが、長老は苦しみながら、なおも微笑をうかべて一同をながめやり、静かに肘掛椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、大地にひれ伏し、両手をひろげ喜ばしい歓喜に包まれたかのように大地に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引きとったのだった。
    (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

    右の「床」、「大地」について藤井さんは疑問を呈していらっしゃいます。

    まず、米川訳の傍線部分の「土」、「大地」という訳語に注目されたい。

    私はこの部分を読んでいて、情景をイメージできなかった。床とは地面そのものなのか? 長老は室内にいるのではなかったか? それなのになぜ「土」に顔をすりつけたり、「大地」に接吻したりになるのか? 
    そもそも冒頭には、「床へすべり落ちて」とあるではないか。「床へすべり落ち」た長老がどうして「土」や「大地」に口づけすることになるのだろうか? 
    そこの「床」は木でなくて土で被われているのだろうか? 文学作品ではそうした細部がとても気になる。
    その場面を仮に映画化するとしたら、「床」はどんなセットになるのだろうか?
    あるドストエーフスキー研究者は、一種の比喩ではないかと私に語った。
    気にしだすときりがない。私はその疑問にこだわってみた。

    問題は「土」や「大地」と訳されたロシア語 земля (ゼムリャー)の語義である。 …… (中略) …… земля にはもちろん「大地」「地面」という語義はある。だがその他に、この場面にそぐうようなほかの語義はないのか? 
    私は露々辞典をいくつか繙いてみた。そして大発見をした。〈床(ゆか)〉という語義が見つかったのだ。
    (藤井一行『翻訳の品格』 著者自家出版会)

    つまり、藤井さんは、先の原卓也訳についていえば、 

    だが、長老は苦しみながら、なおも微笑をうかべて一同をながめやり、静かに肘掛椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、床にひれ伏し、両手をひろげ喜ばしい歓喜に包まれたかのように床に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引きとったのだった。

     ── となるべきだ、とおっしゃっているのだと思います。

    しかし、ここはやはり「床」ではなく「大地」という訳語でなければならないのではないでしょうか? 

    もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。
    (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

    孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大なる贈り物であり、多くの者にではなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。(同)

    右の「大地」が原文ではおそらくземля なのでしょう。

    また、こちらはもっと後のアリョーシャの描写です。

    何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。(同)

    ここでも「大地」は земля のはずです。 引用した三つの文章とも、земля を「床」と訳すことはできません。そうして、長老の死の場面におけるземля も、それらと同一の訳語が使われていなくてはならないのではないでしょうか?

    とはいえ、それでも気になるのが、すでにこの作品の最初の方 ── 「場違いな会合」 ── で、これも長老の庵室において、原卓也訳ではこうなっています。

    長老はドミートリイの方に歩きだし、すぐそばまで行きつくなり、その前にひざまずいた。アリョーシャは衰弱で倒れたのだと思いかけたが、それは違った。ひざまずいたあと、長老はドミートリイの足もとにはっきりした、意識的な気跪拝をし、額を地面に触れさえした。(同)

     さらにその前には、

    ゾシマ長老は見習い僧一人と、アリョーシャとを従えて出てきた。司祭修道士は立ちあがり、指が地に触れるほど深いおじぎをしたあと、祝福を受けて、長老の手に接吻した。二人に祝福を与えると、長老はやはりそれぞれに対して、指を地に触れさせて深いおじぎを返し、自分のための祝福も一人ひとりに求めた(同)

    ── とあります。ここでも「地」、「地面」はземля なのだと思うのですが

    『カラマーゾフの兄弟』において「大地」という言葉の意味は非常に重要なので、ドストエフスキーがこの語に、ロシア人読者相手にさえ「床」という意味で読ませるということがどれだけありうるだろうか、と私は思ってしまうのです。自分の無知を承知でいいますが、長老の庵室のつくりに「土」の部分がなかったのかどうか、あるいは、日本人に「土」、「大地」と「床」との違和感が大きすぎるのか、ということを考えてしまいます。この点に関して藤井さんはどう思われますか?

    私は藤井氏に右のメールを送るとともに、いつもの ── ロシア語を解する ── 友人にも問い合わせてみました。いつもながら彼に感謝します。彼の回答は
    こうです。ゾシマ長老の庵室は「土間」なのだろう。自分はずっと「土間」だと思って読んできた。たしかに『カラマーゾフの兄弟』に「土間」なのか「床張り」
    なのかという言及はない 。しかし、 ──

    ● 作中数個所にあるゾシマの庵室のどの場面でもずっと“пол(床)”という語は用いられておらず、問題の臨終の場面になって初めてこの語が登場するも、後続の「腐臭」ではまた姿を消し、「ガリラヤのカナ」で一個所出てくるのみ(隣の部屋の床の上で[на полу] 若者らしい深い眠りについているポルフィーリイ …… )。

    ● その代りに“земля(土、大地)”という語が繰り返し用いられている。その殆どが 「深々とお辞儀をする」、「叩頭する」などの慣用句的な用例
    ではあるが、これにゾシマの 教えの文脈が加わることにより、自ずと「剥き出しの地面(=土間)」がイメージされるようになっている。

    ● 「ゾシマの庵室よりはゆったりとしていて過ごし易いものの、極めて質素な造り」とされている修道院長の住居の描写に“даже полы были
    некрашеные(板張りの床にさえ何も塗られていなかった)”とあり、極めて間接的ながら、読者の脳裡に『するとゾシマの庵室の床はきっと板張りですらなく、剥き出しの地面(=土間)なのだな』という思い浮かぶような描き方がなされている。

    ── ということでした。

    さて、萩原俊治氏はземля に「床」という意味があるのはもちろんだ、といい、こうつづけます。

    従って、藤井氏が言うように、米川訳や原訳で「土」とか「大地」とか訳されている「земля」の意味が「床」であることは明らかだ。ここまでは藤井氏に私も同意する。しかし、ドストエフスキーは、なぜ「床(пол)」という言葉を使い続けることをせず、「床(пол)」を「земля(土、大地)」に言い換えたのか。文章に凝って同じ言葉を使うことを避けたのか。ドストエフスキーはまずそういう小細工をしない作家だ。従って、そこには明らかにある意図があったと見るべきだろう。

    たとえば、このゾシマの死のあと、アリョーシャの回心の場面が描かれる。そこでアリョーシャは「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻する。その行為によってアリョーシャは自分をこの世界に送り出してくれた神に感謝している。なぜ「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻するのか。それは神の造った「земля(土、大地)」が自分を育ててくれたからだ。「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻することによってアリョーシャは、神に感謝しているのである。このとき神の被造物であるアリョーシャは造物主と一体となり回心し、これ以降、彼の信仰は揺るぎのないものになる。

    ゾシマの死の場面は明らかにこのアリョーシャの回心の場面の予告になっている。アリョーシャはゾシマが教えてくれたように振る舞ったのだ。従って、ここは藤井氏のように、「земля(土、大地)」を 「床( пол)」と訳してはいけない。ゾシマの祈りの対象は「床」ではなく、その先にある「大地」だ。われわれが家の中で祈るとき、天井を突き抜けた先にある天に向かって祈りを捧げるように、ゾシマは「床」の先にある「大地」に向かって祈りを捧げているのである。ここを「床」と訳すと、作者がこの場面にこめた意味が失われてしまう。

     ちなみにAndrew. R. MacAndrewの英訳では「земля(土、大地)」は「ground」と訳されている。「ground」にはロシア語の「земля」と同様、
    「地表」という意味と同時に「床」という意味もあるので、「ground」という訳語を選んだのだろう。
    萩原俊治「『翻訳の品格』」 ── 「こころなきみにも」

    木下氏が『いかにひどいか』で問いかけているのは、「簡単で読みやすい」=「良訳」ではない、ということです。

    世代をこえて読み継がれてきた古典を、サルでも分かるレベルに噛み砕き、ダイジェストで読者にお届けすることが翻訳の使命とは思いません。

    我々、日本人には読めない外国語の原典を忠実に再現することです。その際、現代人には分かりにくい用語や言い回しがあったとしても、一方的に別のものに置き換えていい道理はないでしょう。

    例えば、時代劇では、「拙者」「きんす」「殿中でござる」「くせ者じゃ」等々、歌舞伎みたいな台詞が多々登場します。今時、「引導をわたす」「不憫なやつ」とか言われても、何のことか分からない人も少なくないのではないでしょうか。

    だからといって、ため口の家来や平等主義の側室、「ヤバイ」を連発する将軍など、現代人に合わせて台詞も変えてしまったら、当時の武家社会の本質も歪んでしまうでしょう。コメディ時代劇ならともかく。

    何でも大衆にウケて、わかりやすければ良い、というものではなく、お芝居でも、文学でも、最低限、これだけは死守せねばならない指針というものが存在するのではないでしょうか。

    ところが、亀山訳のカラマーゾフを筆頭に、近年の新訳ブームは「わかりやすさ」や「親しみやすさ」を原典よりも優先し、「売れればそれでいい」という態度で真摯な批判も一蹴するから、皆が怒っているのです。

    それはもはや「翻訳」ではなく、ダイジェスト版であり、学生向けの文芸読本ですね。

    ところが、「新訳」と銘打ってあれば、何も知らない新規の読者は「これが原典」と思い込み、「ドストエフスキーはこういうもの」「カラマーゾフの兄弟はこういう話」と誤ったイメージを抱いたままで終わってしまいます。複数の翻訳を読み比べするほどの文芸好きなら、いつかそのおかしさに気付くかもしれませんが、多くの読者は一度読んだら満足して、別の訳本にまで手は出さないでしょう。そして、誤ったイメージを抱いたまま、また次に進むので、どんどん本質からかけ離れていくことになります。中には、「カラマーゾフはこういう話」と誤った解釈を周りに伝え、それを鵜呑みにする人もあるかもしれません。それが一般の文芸愛好家の与太話であれば、「そんな読み方もあるのか」で済みますが、権威がお墨付きを与えた学者や文化人の著作だから問題なのです。

    「床」と「大地」の記述にしても、「どちらでもOK」という事は決してないし、この場面で一番重要なのは、「ゾシマ長老は何に祈りを捧げたのか」ということです。

    ゾシマ長老の祈りといえば、カラマーゾフ一家の家族会議で、激高したドミートリイの足元に長老が叩頭し、「お赦しくだされ! 何もかもお赦しくだされ!」と訴える場面が非常に印象的です。(参考 【12】『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を下げたのか

    また、ゾシマ長老の死後、一時は自分を見失ったアリョーシャが大地を抱擁し、信仰心を新たにする場面も感動的です。

    『罪と罰』では、ラスコーリニコフの殺人を知ったソーニャが「「お立ちなさい! 今すぐ行って、四辻にお立ちなさい。そして身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。それから、世界じゅう四方八方に頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、『私は人を殺しました!』とおっしゃい! そうすれば神様がまたあなたに命を授けてくださいます」と諭し、ラスコーリニコフはそれを実行します(参考 『罪と罰』 名言と解説(米川正夫訳) ~ラスコーリニコフの非凡人思想

    こうした描写を鑑みても、ドストエフスキーにとって『大地』が特別な意味を持つのは一目瞭然ですし、ロシア文化を理解する上でも、あの広大な大地が精神的土壌になっている事は言うまでもありません。

    何をどのように表現しようと、個人の好き好きかもしれませんが、「表現すること」と「伝えること」は別ですし、分かりやすいことが本質に置き換わるとも思いません。寺山修司の名言に「ぼくは、「生きる」などということを10行くらいで書いて悩むような軽薄さを好まない」というものがありますが、文芸も同じ、テーマが深いほど、ひと言では言い表せなくなるのが自然ではないでしょうか。

    一言一句に命を削るからこそ、文芸人であり、作家です。

    守るべき一線が失われたら、その先にあるのは、崩壊であり、衰退ではないでしょうか。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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