カラマーゾフの兄弟– category –
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子は永久に『子』~父親という人生の負債(5-2)
父親を殺したいほど憎んだとしても、親は親、子は親には永久に逆らえない。たとえ相手が強欲な淫蕩父でも、育児放棄するような親でも、子は生まれながらに十字架を背負わされたように、親を慕って生きていく。心底から否定などできるわけがない。それゆえに苦しむのである。 -
作品に罪はあるのか。非凡人は法律を超える権利を有するのだろうか。
マイケル・ジャクソンの性的暴行容疑に思う。有名人の犯罪は「非凡人」ということで許されるのか。作品に罪はないのか。ドストエフスキーの名作『罪と罰』の「非凡人は法も踏み越える権利を持つ」というラスコーリニコフの思想をベースにしたコラム。 -
第五編 第五節-2 悪魔の三つの問い
【 『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第五編 『ProとContra』 より】 人間の様子を見るため、異教徒の火刑場に現れたイエス・キリストは、90歳になる大審問官に捕らえら... -
ロシアの修道僧 人間の孤立の時代と偉大な思想を絶やさぬ試み
なぜなら今世紀においては万人が個別に分裂して、だれもが自分の穴に閉じこもろうとし、だれもが他人から遠ざかって、自分の身も、自分の所有物も他から隠そうとし、あげくは自分が他の人々に背を向けられ、逆に自分も他の人々に背を向ける結果になっているからです。ゾシマ長老の説教は、ドストエフスキーから全人類に向けた遺言でもある。 -
真理は人間を自由にするはずだった → 自惚れから悪魔の側へ
「人間たちは、かつてのいかなるときにもまして、自分たちが完全に自由であると信じ切っておるのだ。そのくせ彼らは自分からすすんでその自由をわしらに捧げ、うやうやしくわしらの足もとに献呈してしまっておるのだがな」ここでいう『自由』というのは、「束縛されない」ではなく、「何でも好きなことができる選択の自由」の意味だ。即ち『原罪』の延長でもある。 -
無垢な涙の上に万人の楽園を築けるか?
アリョーヤの視点は、当事国から一歩離れて、調停する側にある。調停者はジャッジはしない。A国もB国も、それぞれに主張があり、どちらが正しいかジャッジを持ちこむ限り、問題は永遠に解決しないからだ。そうではなく、それぞれの言い分、それぞれの間違いを受け入れつつ、平和に導く。イエス・キリストは、そうした高次的な存在であり、当事国の理屈で解決しないものを平定する為に正義を説いている。 -
ProとContra の注釈 ~肯定と否定、世界を形作る二つの相反する価値観
肯定と否定。人は迷いや不安を解消する為に「どちらか一つ」を選ぼうとするが、私たちは双方と上手に付き合うことによってしか地上に存在しえないように感じる。イワンのように、否定ばかりでは心がもたないし、アリョーシャのように、あまりに心が清らかだと、かえって物事が混乱するかもしれないから。